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 霊界通信
ベールの彼方の生活A
第二巻 「天界の高地」篇 
G・V・オーエン・著 近藤千雄・訳
潮文社
 
 
 インスピレーション

 いわゆるインスピレーションの問題がわれわれと人間との間でどのように作用しているかを述べよう。このインスピレーションなる用語は正しく理解すれば実に表現力に富む用語であるが、逆に実に誤解を招き易い用語でもある。たとえば、それは「われわれ(霊界の者)が神の真理を人間の心に吹き込むことである」と言っても決して間違ってはいない。が、それは真相のごく一部を述べているに過ぎない。それ以外のこと――向上する力、神の意志を成就する力、それを高尚な動機から成就しようとする道義心、その成就のための叡智(愛と渾然一体となった知識)等々――をも吹き込んでいるからである。故に、いかに生きるべきかを考えつつ生きている者は、何らかの形でわれわれのインスピレーションを受けているのである。
 が、これを新しい神の真理を世に伝える人々、あるいは古い真理を新たに説き直す人々のみに限られたことと思ってはならない。病気の子どもを介抱する母親、列車を運転する機関士、船を操る航海士、その他もろもろの人間が黙々と仕事に勤しんでいるその合間をぬって、時と場合によってわれわれがその考えを変え、あるいは補足している。たとえ当人は気づかなくとも、われわれは出来る範囲のことをしてそれで満足である。邪魔が入らぬかぎりそれが可能なのである。
 その邪魔にも数多くある。頑な心の持ち主には無理して助言を押しつけようとはしない。その者にも自由意志があるからである。また、われわれの援助が必要とみた時でも、そこに悪の勢力の障害が入り込み、われわれも手出しが出来ないことがある。悪に陥れんとする邪霊の餌食となり、その後の哀れな様は見るも悲しきものとなる。
 それぞれの人間が、意識すると否とに拘らず、目に見えぬ仲間を選んでいると思えばよい。当人が、目に見えぬ未知の世界からの影響を受けているという事実をあざ笑ったとしても、善意と正しい動機にもとづいて行動しておれば一向に構わぬことである。それが完全な障害となる気遣いは無用である。われわれは喜んで援助する。なぜなら当人は真面目なのであり、いずれ自分の非を認める日も来るであろう。ただ単に、その時点においてはわれわれの意図を理解するほどに鋭敏でなかったということに過ぎない。人間がわれわれの働きかけの意図を理解せず、われわれが誤解されることはよくあることである。
 水車は車軸に油が適度に差されているときは楽に回転する。これが錆つけば水圧を増さねばならず、車輪と車軸の磨耗が大きくなり、動きも重い。また、船員は新たに船長として迎えた人が全く知らない人間であっても、その指示には一応忠実に従うであろうが、よく知っている船長であれば、たとえ嵐の夜であっても命令の意味をいち早く理解してテキパキと動くであろう。互いに心を知り尽くしているが故に、多くを語らずして船長の意図が伝わるからである。それと同じく、われわれの存在をより身近に自覚してくれている者の方が、われわれの意図をより正しく把握してくれるものである。
 それ故、ひと口にインスピレーションと言っても意味は広く、その中身はさまざまである。古い時代の予言者は、その霊覚の鋭さに応じて霊界からの教示を受けた。霊の声を聞いた者もおれば姿を見た者もいた。いずれも霊的身体に具わる感覚を用いたのである。また直感的印象で受けた者もいる。
 われわれがそうした方法によって予言者にインスピレーションを送る目的はただ一つ――人間の歩むべき道、神の御心に叶った道を歩むための心がけを、高い界にいるわれわれが理解し得たかぎりにおいて、地上の人間一般へ送り届けることである。もとよりわれわれの教えも最高ではなく、また絶対に誤りがないとも言えない。が、少なくとも真剣に、そして祈りの気持と大いなる愛念をもって求める者を迷わせるようなことには絶対にならない。祈りも愛も神のものだからである。そしてそれをわれら神の使徒は大いなる喜びとして受け止めるのである。
 人間は、次の2つのことを心しなければならない。1つは、天界にて神に仕える者の如くに地上にありても常に魂の光を灯し続けることである。われわれが人間界と関わるのは神の意志を成就するためであり、そのためにわれわれが携えて来るのは他ならぬ神の御力だからである。人間の祈りに対する回答はわれら使徒に割り当てられる。つまり神の答えをわれわれが届けるのである。故にわれわれの訪れには常に油断なく注意しなければならない。
 もう1つは、常に“動機”を崇高に保ち、自分のためでなく他人の幸せを求めることである。われわれにとっても、自分自身の利益より同胞の利益を優先させる者の進歩が最も援助しやすいものである。われわれは施すことによって授かる。人間も同じである。動機の大半は施すことであらねばならない。そこに、より大きな祝福への道があり、しかもそこに例外というものはないのである。
 花の導管は芳香を全部放出して人間を楽しませては、すぐまた補充し、そうした営みの中で日々成熟へと近づく。心優しき言葉はそれを語った人のもとに戻って来る。かくして2人の人間はどちらかが親切の口火を切ることによって互いが幸せとなる。また、優しき言葉はやがて優しき行為となりて帰ってくる。かくて愛は相乗効果によって一回り大きくなり、その愛とともに喜びと安らぎとが訪れる。また施すことに喜びを感じる者、その喜び故に施しをする者は、天界へ向けて黄金の矢を放つにも似て、その矢は天界の都に落ち、拾い集められて大切に保存され、それを投げた者が(死後)それを拾いに訪れた時、彼は一段と価値を増した黄金の宝を受け取ることであろう
 
 
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