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 心と食物と人相と
谷口雅春・著  日本教文社
 
 因果の法則は撥無(=排斥)できない

 この「動・反動の法則」は厳然として常に因果の世界を支配しているから、我々が生物を殺すことを何とも思わないというような気持ちで、生物を殺して食べるということを実行すると、それは広範な意味における「殺される状態」というものがそこに現れてくるのである。かならずマイナスの報復が循環して、その報復がある姿をなして現れてくるということになる。これを因縁因果の法則ともいい、業の法則とも、原因結果の法則とも、心の法則ともいうのである。

 
心で是認した業は一層ハッキリ循環する

 もっとも、この心の法則というものは、知らずして殺人したとか、過って人を殺したというような、心において殺人を意図しない場合には、あまり「報復」というものがめぐってこないのである。
 なぜなら、この世界の原因結果の法則を動かしているものは心の力だからである。心そのものが殺人を意識して、それを肯定して意識的にその殺生を是認している場合は、その業の循環がいっそうハッキリ現れてくる。それは心によってその行為が支えられ、循環させられるからである。
 動物を食物として食べる場合にも、「殺すのは当たり前だ」というような是認的な意見をもって食べないで、「ああすまない」と懺悔しながら食べるときには、業の循環の程度がそれだけ少なくなるということが、心の法則の上からいうことができるのである。

 
懺悔はなぜ必要か

 懺悔の心を起こして、「自分は殺したくないのだけれども、やむを得ない。ああ、すまない」と思って食べる。その殺生によって支えられている生命であるから、何とか他のためになるように生かさねば、という心を起こすのが懺悔である。
 自分一人で生活しているのであったら、自分だけは動物を殺さないでも生きられるけれども、家庭生活をしていると、自分だけが植物食ばかりを食べようと思っても、親や家族から「そんなことしたら身体が衰弱する」とか、「痩せて病気になる」と言われたりする。
 そうすると、これは周囲の人の愛念を生かさなければならないし、特別に自分のために料理の苦労をかけるのも申しわけがないということで、肉食することを心のうちで懺悔し、あやまりつつ、料理をしてくださった食物を感謝して食べるということは許されてもよいのである。
 この場合は、「殺す」ということを是認する心で食べるのではなく、やむを得ずあやまりながら、肉食を否定しつつ食べるのであるから、業が形に現れることを否定することになるのである。
 自分のやっていることを罪悪と思わないで、それを肯定しつつ食べるという場合には、その業が「肯定する心」に支えられて強力に形に現れてくるということは、病気が起こったり治ったりする実例によってよくわかるのである。

 
口先だけの懺悔では効果はない

 もっとも、懺悔すれば業が消えるからというので、口先だけで「すまなかった」と言えば、どれだけ肉食しても殺生してもよいと、肉食や殺生を肯定する心になってしまっては、「すまない」というのはただの「呪文」であって、実際は心の中で肉食を肯定しているのだから、やはり殺生の業は循環することになるのである。
 さらに必要なのは、あまやると同時に、まあ魚でも牛でも、とにかく我々の食物となるために犠牲になって下さったことに対する感謝の念をともなって食することが大切である。そのことによって、その牛や魚の霊魂が冥福を得るということになる。そして、その犠牲を通して生かされている自分の生命であるから、人類のために必ず貢献しようと努力することである。そうすると、間接的にその牛や魚の霊魂が善業を積んでいることになり、その霊魂たちの冥福に寄与することになる。
 そういうわけで、釈尊も、本来、僧たる者は動物を食しないのだけれども、供養された食物である場合には、それを殺生とみないで、そこに「供養の愛念」をみて、仏の慈悲というものが食物としてそこに姿を現しているものだとして、拝んでいただくということを許されたのである。
 
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