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 ガイアシンフォニー間奏曲
龍村仁・著  インファス
 
 
 トマトと心を通わせる

 『地球交響曲』の出演者のひとり野澤重雄さんは、たった一粒のごく普通のトマトの種から遺伝子操作も特殊な肥料も一切使わず13,000個も実のなるトマトの巨木を育てた人である。私は野澤さんにお願いして、映画のために種植えを行ない、13,000個の実がなる巨木に成長するまでの過程を撮影した。このトマトの成長過程が、6人の出演者のオムニバスであるこの映画の縦軸となり、最後の楽章『誕生』では、幹の太さ10p、葉の拡がり直径10mの巨木に成長したトマトが、一時に5,000個以上の真赤な実をつけている姿を紹介することができた。
 野澤さんになぜこんな“奇跡”のような事ができたのかの詳しい説明は、映画を御覧いただきたい、と思う。
 89年の7月、種植えを開始するにあたって、野澤さんは私に次のような事をおっしゃった。
 「技術的には何の秘密もないし、難しい事もないんです。ある意味では誰にでもできます。結局一番大切なのは育てている人の心です。成長の初期段階でトマトに、いくらでも大きくなっていいんだ、という情報(十分な水と栄養があるんだという情報)を与えてやりさえすれば、後はトマトが自分で判断します。トマトも“心”を持っています。だから撮影の時にはできるだけトマトと心を通わせ激励してやって下さい」
 この話を聞いた時、私は「トマトも“心”を持っている」という事についてはごく素直に受け止めることができた。しかし、そのトマトと心を通わせる、とはいったいどうすればよいのだろうか。「トマトさん、こんにちは、お元気ですか、今日もまたよろしくお願いします」などと声をかければよいのだろうか。ただでさえ一家言あるひねくれ者が多い撮影のスタッフの前で、私がトマトにブッブツ話しかけたり、ましてスタッフ全員にそんな事を強制したりすれば、「降ろしてもらいます」と言い出す者が出て来ても不思議はない。だからといって野澤さんのおっしゃる事は、撮影を成功させるためには決して無視できない。
 撮影の初期段階では私はいつもスタッフより一足早く温室に入り、彼らが準備をしている間に密かに、声を出さずにトマトに話しかけていた。ところが撮影が進むにつれてスタッフの中にも変化が現れ始めた。実際数カ月間をおいて久し振りでトマトに会ってみると、その成長ぶりには思わず声を上げるほど感動してしまう。つい「いやあ、お前デッカクなったなあ、エライなあ」なんて声を出して言ってしまう。皮肉屋のカメラマンまでが「スマン、今日はちょっとライトを当てるけど気にしないで」なんて言うようになった。こうしてトマトに話しかける事はスタッフの間でごく自然な事になった。
 トマトの成長がそろそろ絶頂期を迎えようとする頃だった。突然イタリアの登山家メスナーから連絡が入り、予定が変わったので今すぐ撮影に来てくれという。トマトの事が多少気にかかっていたが私達はとりあえずイタリアに向かった。イタリアに着いて間もなく、今度は野澤さんの方から電話が入った。トマトの成長がそろそろ限界に来ている、というのだ。真赤に熟したトマトが温室いっぱいに実っている光景は、この映画のクライマックスにとって絶対不可欠なシーンだ。
  私はいつ頃が限界なのかを野澤さんにたずねた。彼が指定した期日は私達が帰国できる日の10日も前だった。メスナーの撮影を途中で中止するわけにはいかない。だからといって、帰国した時、たわわに実ったトマトが無くなってしまっていたら映画全体が台無しになる。もちろん、代役を立ててカメラを回せばトマトを撮ることはできる。しかしここまで撮って来たトマトの最後の姿を他人に撮らせるのでは、トマトに申し訳が立たない。
 もし本当にトマトに“心”があるのならこの私の苦悩がわかってくれるに違いない。こんな常識はずれな事に賭けてみるのも『地球交響曲』らしいやり方ではないか。そう思った私は、イタリアからトマトに毎日念を送りながらメスナーの撮影を済ませた。帰国してすぐ、家にも帰らずスタッフを連れてトマトを訪ねた。
  トマトは待っていてくれた。生い繁る緑の葉の中に、熟し切った5,000個の真赤なトマトが実る姿は、『地球交響曲』の最後を飾るのにふさわしく、実に美しく見事だった。
 トマトの撮影を終え帰宅した次の日、夕方5時頃の事だった。また野澤さんから電話が入った。
 「龍村さん、昨日温室で変な事があったんです。真夜中に温室の中から奇妙な音が聴こえるので、当直の者が覗きに行ったんです。するとなんとあの5,000個のトマトが間断なくボタボタと落ち続けているんです。奇妙な音はその音だったんです。そして今日の昼頃にはほとんど全部落ちてしまいました。写真を撮りましたのでお送りします」
 送られて来た写真は、その前日とは似ても似つかぬ、生い繁る緑の葉だけになったトマトの姿だった。写真には野澤さんの短いコメントが添えられていた。“私は何度もトマトの巨木を育てて来ましたが、たった一晩で全部の実が落ちてしまったという経験は初めてで驚いています”。科学者である野澤さんは、決して非科学的だと思われるような物の言い方はされない。ただ、こんな事実がありました、と客観的に示されただけだ。しかし野澤さんが言いたかった事は手に取るようにわかる。
 「トマトはあなた方の帰りを必死で待っていたんです。そして自分の使命がようやく終わったと思ったとたん、ハーッと息を抜いて一気に全部落ちたんでしょう。今回は撮影のために生きたんですから」
 こんな風に書くと、それはあまりにも考え過ぎだと思う人もあるかもしれない。確かに今の私達はトマトに“心”があると証明する科学的方法を持っていない。だいたい“心”そのものが最も科学的説明のできないものだ。だから、この事実もやはり“単なる偶然”と考える人がいても当然だろう。
 しかし、“単なる偶然”と思うか“トマトは知っていたかも”と思うかで一つ大きな違いが生まれる。それは私達の心に起こる喜びの度合いの差である。“単なる偶然”なら、せいぜい“運が好かったね”という程度に終わってしまう。ところが“ひょっとしてトマトは知っていたかも‥‥”と思うなら、限界を10日も過ぎて待っていてくれたトマトに出会った時、心が湧き立ち心の奥底から“ありがとう”と言いたくなる。そして自分自身がとても幸せになる。それがまたトマトに伝わり、あり得ない“偶然”をつくるのかもしれない。

★なわ・ふみひとのコメント★
  この本のトマトの話のような「植物にも心がある」ということを信じる人は増えているのではないかと思います。私もそのことを実感しながら生きている一人ですが、動物や植物に限らず、命を持たない物質と思われている石や水などにもちゃんと心があることを感じるようになりました。たとえばふだん何気なく乗り回しているマイカーなども、実は持ち主の心を受け止めて反応してくれるのです。このことが実感できるようになると、物の取り扱いにも心を配るようになります。「不要な物だから断捨離!」と、ゴミの一部として冷淡に処分する気持ちが持てなくなってしまいます。「十分に活用できなくてごめんね」と謝りながら葬ることになるのです。「この世に存在するものにはすべて心が宿っている」という考え方は、終末の時代の大切なキーワードになると思います。
 
 
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