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 坂本龍馬とフリーメーソン
鬼塚五十一・著  学研
 
 龍馬暗殺の首謀者は誰なのか!?

 多くの謀殺説があり、証言があり、遺留品がある。しかしながら、どれもみな事実のように思えても、これという決定打には欠ける。こうなればもう末梢的な論証は避けて、大筋の流れの中でこの事件の本質を見るしかないだろう。つまり、龍馬暗殺によって何がどうなったかだ。
 そこで暗殺前後の動きを見てみよう。まず大政奉還がなされた。この龍馬の偉業によって、だれが一番困り、面目を潰されたか。武力討幕派の薩長、そして彼らと朝廷の結びつきを強化した公郷たちだった。
 龍馬が最も気を許し、信頼していた中岡慎太郎でさえも、幕府を完全に武力成敗しなければ尊皇はありえないと思っていたのである。それほど当時の志士たちにとって、幕府に対する思いは並々ならぬものがあった。
 大の親友である慎太郎ならば、龍馬のやり方も仕方ないと諦めたかもしれない。むしろ、その手腕に敬服していたふしもある。しかし、武力倒幕派にとって大念願だった討幕の密勅を得た瞬間、わずか2〜3日の差で、それが完全に反古にされてしまったのである。腹の虫がおさまらないとはこのことだろう。いや、むしろはらわたが煮えくり返っただろう。
 このとき、初めて龍馬は邪魔者となった。正確にいえば、次の武力討幕のプランが立てられたとき、真っ先に片づけておかなければならない人物となったのである!
 そのプランとは、その後の歴史が示しているように王政復古の大号令(クーデター)のことだ。
 慶応3年2月9日、龍馬暗殺からわずか24日後、武力討幕派は突如、朝廷を配下に置き、天皇を中心とした総裁、議定、参与という3職による新体制を発足させた。しかも、徳川家のすべての実権を剥奪したのである。そのうえで戊辰戦争にもち込み、これに勝利して明治新政府を樹立する。
 つまり、大政奉還(10月14日)と王政復古のクーデター(12月9日)の間にちょうど龍馬暗殺(11月15日)が実行されている。これはいってみれば、龍馬暗殺の「原因」と「結果」と見ることができよう。つまり、それらの因果関係から見れば、その下手人は、武力討幕派ということになるだろう。薩摩、長州、公卿の明治新政府の主力メンバーということになろうか。おそらくクーデターのプランを練ったとき、龍馬の暗殺も俎上に上ったに違いない。
 すでに多方面に影響力をもっていた龍馬は、最も邪魔な存在だったからである。そして、それを直接に実行に移したのが、武力のりーダー格だった薩摩であることが考えられる。
 ある程度の顔見知りの犯行でなければ、脇差しで一撃を加えられるほど、至近距離まで下手人は近づけないはずである。薩摩藩士の可能性は高いのだ。
 ともかく、龍馬は、まだ33歳の若さでその生涯を終えてしまったのだ。今となっては真相を解明する術(すべ)はない。
 
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