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 日本の一大事
佐藤愛子・著  集英社文庫
 
 親教育の必要

 この頃しみじみと思い出すことがあります。十年くらい前のことだけど、カンボジアでボランティア活動中に射殺された中田厚仁さんという青年の事件がありました。その時、中田厚仁さんのお父上がテレビでいわれた。
 「こういう事態が起こるかもしれないことは覚悟していました。希望していた国際貢献が全うできて本人も思い残すことはないでしょう」
 そう語る中田氏の口辺には微かな笑みさえ湛えられていたのです。
 その姿、言葉に対して私は、「ついに滅び去ったかと思っていたかつての『日本の父、日本の男子』がまだ存在していたという驚きと感動を覚えずにはいられなかった――」と当時のエッセイに書いています。
 ところがその夜、テレビでその記者会見のビデオフィルムが流された後、キャスターの久米宏が、こういったんです。
 「こういう時にあんなふうにニコニコ笑えるもんですかねえ」
 そういって、ちょっと小首をかしげる素ぶりをした――ということは、「こんな時にニコニコ笑えるなんて、たいした人物だ」と褒めているのではなく、さりげなく皮肉をいってみた、というイヤミな感じを出そうとしてるようで、私は思わずむっとした。
 その後、朝のワイドショウなどでも「少しカッコをつけすぎる」というような中田氏への疑問や批判があったということで、ビートたけしも「こういう立派なことをいわせる(いわねばならぬと思わせる)社会の方に問題がある」といっていたとか。不愉快というよりも、私はもうほとほとこの国がいやになりましたよ。
 日本人は変質した。価値観ばかりか、感受性が根こそぎなくなった。人の心の襞(ひだ)を汲みとるデリカシイをかつての日本人はみな持ってましたよ。しかし今は心の陰翳(いんえい)を感じ取る前に、自分勝手な独断的分析をし批評をする。
 人の言葉の蔭にあるものがわからない、わかろうとしない高慢な不感症になり果てた。
 確かにかつての日本には心にもない建前をいわねばならないという社会風潮がありました。
 「お国のため、天皇陛下のおん為に立派に死んできます」
 と戦地へ赴く兵士が挨拶したことなんかそうです。海軍では戦死者の遺族には涙を隠して、「お国のために役立って本人も本望でございましょう」
 と弔問客に挨拶しなければならなかった。
 それを国家権力に支配されていた哀れな人間の姿であると決めつけるのは簡単です。しかし、そういう言葉を口にすること――こういうのを痩我慢というのでしょうが――痩我慢をして歯をくいしばって悲しみを耐えることが、かつて我が国では美徳だったのです。日本人はそういう歴史の中を生きてきた。泣き崩れるよりも我慢している姿を美しいと、誰もが感じた。そして実際にそうすることで悲しみを越えたのです。泣き喚いて越える場合もあるが、耐えて微笑して越えるということもある。それは権力によるものというよりは、日本の国民性、文化だったと私は思うのね。
 少なくとも私などの年代までは悲歎を押し殺して、建前をいう姿に心打たれました。そうしてそこに「惻隠(そくいん)の情」というものが生れ、「口には出さないがわかり合っている」という、しみじみとした優しい人間関係が出来たのです。そういうデリカシイを日本人は愛したのです。それは陰翳を尊ぶ日本の文化の源です。
 テレビの若いタレントが中田氏にこう質問しました。
 「中田さんはずいぶんご立派なことをいっていらっしゃいますけど、本当の気持ちはどうなんですか?」
 開いたロが塞がらないとはこういうことをいう。もう「惻隠」なんてことはいわない。せめて礼儀を弁(わきまえ)えよといいたい。だがこういっても何が、どんなに礼儀に外れているかがこのバカにはわからないだろう。
 昔はバカは後ろに引っ込んでいたものだ。昔のバカはえらかった。自分がバカであることをちゃんと知っていた。お前はバカだから引っ込んでいろと教える人がいた。今はそれを教える人がいないばかりか、テレビメディアではバカを出せばそれなりに(面白がられて)反響が起きると浅はかに考えるものだから、バカはテレビに出られるのはエライからだとカン違いして平気でしたり顔してしゃべる。
 こういうことをいうと、バカバカとそういう差別語はやめなさい、などとしゃしゃり出てくる手合いがいるけれど、そんなことをいっているからバカが大手をふって減らずロを叩く。今に日本はバカ大国になるだろう――。
 つい興奮してしまいましたが、つまりそれほど(激昂するほど)中田さんは立派な人物だと崇敬しているのです。
 テレビタレントのバカアマッチョに、
 「本当の気持ちはどうなんですか?」
 としたり顔に訊かれた時、中田さんは怒らず慌てず騒がずこういわれた。
 「心の中では慟哭しています」
 ああ、何たる立派な返答か――そう感歎した折しも、アマッチョはこういった。
 「慟哭とはどういうことですか?」
 私はテレビ画面のアマッチョに向かってそばにあった土瓶を投げつけたくなったわよ!
 しかし中田氏は静かに、
 「心の中では泣いています」
 と説明なされたのです。


★なわ・ふみひとのコメント★
 
佐藤さんが憤っておられる気持ちは私にもよくわかりますが、日本人がここまで劣化したのは“バカたち”の責任ではないのです。過去、あまりにも骨太だったこの国の国民を、操作しやすい“家畜”とするための大がかりで息の長い策謀がなされた結果、世代が交代するなかでついに社会の中枢を“バカたち”が闊歩する国におとしめられてしまったということです。そういう意味では、国民の多くが劣化してしまった責任は“バカたち”にあるわけではなく、その裏で舌なめずりして笑っている(に違いない)世界支配層にあるのです。しかしながら、その彼らの力はあまりにも大きいため、かつて彼らの策謀に気づき、抵抗しようとした“まともな日本人たち”は、敗戦と同時に一網打尽にされてしまいました。
 これが私の言う「サタンのシナリオ」の筋書きなのです。いま、それに抵抗するために私たちに残されているささやかな手段としては、まずはテレビ付け人間にならないことでしょう。“バカたち”と呼ぶべきテレビのキャスターやコメンテーターに洗脳されることを避け、かといって彼らを憎んだり、哀れんだりして彼らに心の波長を合わせてしまうこともせず(それをしていると自分も“バカ”の仲間入りをしてしまう恐れがあります)、日々黙々と身魂磨きに専念することが大切です。
 
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