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 日本人が知らない
「人類支配者」の正体
船井幸雄/太田龍  ビジネス社
 
 西郷隆盛は明治天皇すり替え事件を知っていた

太田 薩摩の西郷隆盛は日本の侍の典型ともいえる存在です。たびたびフリーメーソンから誘われますが、西郷さんはそれを拒否します。そこで、言うことを聞かないために西郷さんを処分するようなシナリオが書かれて、実行されたのです。
 西郷さんは孝明天皇弑逆事件の前後についても、フリーメーソンの謀略であるということを知っていたのです。もちろん大室寅之祐のすり替えの真相も知っていました。したがって西郷さんが政権を握ればそういう秘密が全部、日本国民に開示されてしまいます。明治天皇と称する大室寅之祐についても、西郷さんは全然、恐れ入っていません。明治天皇は西洋の帝国主義の傀儡になってしまったわけですが、そういう天皇が邪魔をすれば切るだけだ、という趣旨の詩を書いています。
 だから西郷さんはなにも言わないで死んだけれど、沈黙して世を去った陰で明らかになっていないそうした心情というものは日本人に伝わっていて、それはいまでもつづいているのではないでしょうか。
船井 そうした秘密が封印されているし、それを日本人が胸中で感じるのでしょうね。だから、西郷さんは国民に人気があるのでしょうね。これは私にもわかりますよ。私も、もっとも好きな人です。
太田 西郷さんの出発点は島津斉彬(1809〜58)に見出されたことにあります。島津斉彬という藩主は偉大な人物であり、藩主になった途端に異母弟との間に、確執・お家騒動が起こりました。前藩主・島津斉興の側室であるお由羅が生んだ次男・島津久光(1817〜87)を藩主にしようという強い執念をお由羅は持っていて、斉彬が藩主になったとき、斉彬を呪い殺すという秘密の呪術までさせたといいます。
  島津斉彬は50歳前で病気のため急死してしまいます。それは日本にとって致命的な損害というか損失でした。斉彬は西洋の勢力が日本に迫ってくる、それをはっきり認識したうえで、対抗措置と政策を体系的に展開して、薩摩に西洋式の産業とか軍事工場とかをつくって、日本の体制を立て直して、公武合体政策を推進しようとしました。薩摩は代々、朝廷との関係が深かったのです。朝廷と武家が一致して強力に体制を立て直して、西洋の侵略に立ち向かわなければならないという姿勢をとりました。その当時の藩主でこのようなことを実行できる人は誰もいませんでした。
 この偉大な島津斉彬に見出されて、西郷さんは側用人になったのです。ところが、斉彬は病死してしまいます。これは日本にとって最大の損失といわれています。島津斉彬の後、藩主になった島津久光はお話にならないボンクラで西郷さんは冷遇され、何度も島流しにされてしまいます。
 内村鑑三は西郷隆盛を「代表的日本人」としていますが、まさしく西郷さんは代表的日本人です。明治10年(1877年)に西南戦争が起こったとき、西郷さんの4人の主要な部下のうち、村田新八(1836〜77)という人はヨーロッパでかなり長い間勉強して、西洋のことを非常によく知っていました。村田新八は次代の日本の最高指導者になるだろうと期待されていました。ところがその村田新八が西郷さんと一緒に鹿児島に帰って西南戦争で戦死してしまうのです。鹿児島に帰ってきたときは陸軍少将でした。

 
西郷隆盛はイルミナティから危険視されていた

太田 西郷軍のなかには西洋のことをよく知っている人が何人もいたのです。だから、長州藩の背後にいたイルミナティやフリーメーソン、英国の諜報機関や外交機関などの勢力は、西郷を潰さなければいけないという狙いをつけていたのです。それで西南戦争に動員された政府の軍隊の規模は莫大なものでした。莫大な西洋式軍隊をつくった資金はサッスーン財閥を通じて、東京の政権に対してあらゆる援助を与えたのです。だから西郷軍が戦ったのは東京の政権というより、背後にいる英国と西洋の軍隊だったのです。
 鹿児島ではこのような事情が、意識的か無意識的かは別として何らかの形で浸透しているのではないでしょうか。いまでも西郷さんは代表的薩摩人、鹿児島人であり、大久保利通のほうはまったく振り向きもされず、問題外なのです。
 しかし、長州と大久保一派がつくった歴史ではまったく逆になっています。「征韓論」論争がそれです。明治6年(1873年)に西郷が韓国を征服するという「征韓論」が出てきて、まず国内を固めることが先だという大久保一派と論争をして、西郷のほうが敗れたという具合に、今でも教科書に書かれています。日本人はそういうふうに教えられていますが事実はそうではありません。
 大久保と木戸と岩倉などが欧米を回覧してきた「岩倉使節団」が同年(1873年)9月に帰国した後、西郷の征韓論を批判しました。なぜ大久保と木戸の一派が強硬に西郷を韓国に派遣することを阻止したかというと、単に彼らの考えではなく、背後に英国・フリーメーソンの支配と指示があったからなのです。
 つまり、フリーメーソン・イルミナティの東アジアに対する基本的政策は、数百年来、中国と日本と韓国の3つの国を、絶対団結させてはならないという基本方針があったからなのです。これはいまに至るまで変更されていません。西洋に対して、この3カ国をそれぞれ分裂させてお互いに争わせ、殺し合いさせ、憎しみを掻き立てる、そういうふうに分断するというのが基本方針です。
 この方針を知っていた西郷隆盛は、「自分は韓国に行ってよく話し合って、一緒に西洋と戦おう」と言いに行こうとしたのです。それができたら次は北京に行って、清国の政府とも話し合いたいと公言しています。
 そんなことは絶対許さないはずです。フリーメーソン・イルミナティからすれば、西郷隆盛はその当時におけるアジアのもっとも危険な人物だったのです。「あらゆる力を行使して、西郷を潰せ」という彼らの命令を実行したのが大久保利通と長州勢だったのです。残念ながら、そういうことが鹿児島の人たちにはいまもってわからないのです。
 
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