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 天皇
 誰が日本民族の主人であるか
蜷川新・著  長崎出版
 
 
 鳥羽伏見の乱と朝廷派

 さて、公郷らは薩長派とむすんで、かずかずの策謀をはたらいたが、朝廷派が徳川から権力を奪う分け目の戦いとなった鳥羽伏見の乱もまた、彼ら公卿と薩長派の策謀によって起こったものである。
 1867年(慶応12年)10月に、京都にいた徳川慶喜は、自分の重臣らと一言の相談もせずに、独断で幕府の権力を放棄した。それと前後して、岩倉(具視)の手でつくられた、偽の「討幕の密勅」なるものが、薩長の二藩に出された。そこで薩藩の西郷隆盛は、部下の益満休之助と伊牟田尚平を江戸に送り、江戸の薩摩屋敷において、五百人の浪人を募集させた。そうして、それに武器をわたして江戸市中にはなち、各所で民家に強盗せしめた。この事実は、知らない人が多いけれども、当時の文書には相当に書かれている。私なども、幼少のころからしきりに聞かされたものであった。
 彼らは民家から五十万両を強奪したといわれる。のちに、この強盗団の巣屈である薩摩屋敷は、小栗上野介らの主張によって焼きはらわれた。強盗らは京都にのがれ、西郷に会い、さらにまた信州において「赤報隊」というものを組織していたが、翌年の春、東山道総督軍によって「偽(にせ)勤王」の名のもとに、主謀者はことごとく斬首された。のちに伊牟田も斬首された。証拠の湮滅(いんめつ)をはかるためであろう。この強盗団の組織には、西郷をはじめ、岩倉、大久保(利通)、板垣退助らも加担していたのであるが、自分の野望を達するために手段をえらばぬ彼らの心事は、およそこのような卑劣なものであったのである。
 権力を放棄した慶喜の善意は、12月の小御所会議において、完膚なきまでにふみにじられた。慶喜自身は会議に列席をゆるされなかった。岩倉や薩摩藩主は、不在の慶喜をはなはだしく侮辱し、領土の大削減を要求した。公正な論を主張した山内容堂は、懐中に短刀を握りしめた岩倉の暴論によって、ついに圧倒されたのである。この報がつたわると、当然に、徳川方に不満は勃発した。擾乱をさけるために、慶喜は、京都から大阪に去らざるをえなくなった。
 ところが、慶喜が大阪城にいるかぎりは西国の大名が京都に兵を出すことができない。そこで慶喜をどかせようというのが、いわゆる「鳥羽伏見の乱」の根本の動機である。
 そこで、朝廷側の策士らは、尾張と越前との二つの親藩を通して、慶喜に「単騎上京」を命じた。そうして、上京してきたならば、宮中において、井上馨らが、慶喜を刺殺する準備をしていたのである。このことは明治になってから、井上自身が植松澄三郎と大川平三郎との二人の実業家に自慢話として聞かせた事実であった。
 そのころ、大阪城に、江戸から薩摩屋敷強盗団の知らせがとどいた。そこで、会津および桑名の藩士は、「君側を清むるには好時機である。」と慶喜を説き、「薩藩好党ノ考罪状之事」という斬奸状をたずさえ、慶喜を護衛して上京することになった。それは単なる護衛であるから、進撃態勢ではないのである。そうして先供が鳥羽まできたところ、薩長の軍隊が、関門をとじて通さない。そこで押問答になった。徳川方は、通れないので芝生で酒を飲んだり、踊ったりしていたのであった。夕刻になって、そこへ、西郷が突然、大砲を打ちこんだのである。1868年(慶応4年)1月2日、これが戊辰戦争の発端であった。
 西郷は、そのとき、「勝てば、俺のほうが天下が取れる。敗れれば、俺のほうの天下はだめだ。ともかく撃ってしまえ」という意味のことを放言している。西郷という人は、そういう男である。ほめるならば、その機智と勇断とをほめるべきであろう。しかし、むろん、「勤王」でもなんでもない。「人民」や「人命」などは、眼中になかったのである。現在であったならば、まっさきに破防法に引っかかる男であろう。
 天皇中心の歴史によると、この戦争で徳川が敗走したように書いてあるが、まっ赤なうそである。徳川方は、はじめは優勢であった。山内容堂は、この戦争を「あれは、会桑と薩長との私闘である」と臣下に語っている。
 京都の紺屋で、かねて長州藩に出入りしていた岡という男がいた。この男が、自分で錦旗をこしらえ、井上馨のもとにもってきた。そうして、この旗を出して、こちらが官軍だということにしなさいというのである。井上は大いによろこび、さっそく、これを軍門にかかげた。すると、このあいだ亡くなった石渡荘太郎の父親の石渡敏一の親類で神保修理という男が、「錦旗が出でたり」とふれまわり、全軍が騒ぎになった。そこで、「天皇には背けない」というので、徳川方は淀まで引きさがってしまったのである。敗けたのでもなんでもない。しかし、結果において、勝敗は決してしまったのである。この偽造錦旗の事実は、私が、長州闘の田中義一から聞いたものである。その紺屋の息子は、のちに陸軍大臣になった岡市之丞で、世間からは長州人と見られていた人である。神保は江戸に帰ったのち、その責任をせめられ、切腹している。
 不決断な慶喜は、江戸に帰ることになり、海上に出ると、岩倉は、「慶喜反す」という触れを全国に出した。それで、日和見の全国の大名どもは、朝廷側についてしまったのであった。
 慶喜が政権を放棄して以来の朝廷側のやり口は、当時の武士として自尊心をもつほどの人間ならばとうてい堪えられないほどの卑劣なものであり、不正なものであっだ。小栗上野介は、綿密な作戦を立て、断固として、西軍を掃滅することを主張した。戦うべきか降伏すべきかをきめる最後の江戸城会議は、1868年(慶応4年)1月13日から7日間にわたって、連日、払暁にいたるまでつづけられた。小栗の軍略は、のちに大村益次郎が、江藤新平らに「もし、小栗の献策が用いられていたならば、われわれはほとんど生命がなかったであろう」と語ったほどのものであった。
 しかし慶喜は、迷いに迷いつづけた。最後の日、小栗はずかずかと前にすすみ、その袖をかたくつかんで、最後の断をせまった。慶喜は顔面蒼白となり、その袖を振りきって、奥へ逃げ去った。議場騒然となり、会議はそれで終わったのであった。この事実は、その会議に列席していた朝比奈甲斐守から私が直接聞いたものである。

★なわ・ふみひとのコメント★
 
公卿だった岩倉具視は大変な策士で、伊藤博文と共謀して孝明天皇を嗜逆(暗殺)し、その子・睦仁親王(本来なら明治天皇になる人)をも殺害して大室寅之祐という長州の人物とすげ替えた話はよく知られています。ここでは、鳥羽伏見の戦いの勝敗の決め手となった「錦の御旗」が真っ赤な偽物だったという事実が証明されています。歴史はこういう小賢しい人物たちの狡知によって左右されてきたことがわかります。また、大政奉還を決断した徳川慶喜が、実は大変臆病で優柔不断な人物であった事実も明らかになっています。忠臣・小栗上野介の無念な気持ちが伝わってくる内容です。
 もちろん、このときに徳川慶喜が小栗上野介の献策を採用して薩長軍を掃滅し、幕府側が勝利したとしても、いずれこの国がロスチャイルド一族のコントロール下に置かれるという運命に変わりはなかったでしょう。薩長と幕府を対立構造に追い込み、両者を戦わせて疲弊させ、金の力で支配してしまうという彼らの策略は必ず成功したはずです。慶喜が臆病であったことによりもっとも気の毒な立場に置かれたのが小栗上野介でした。かくして、ロスチャイルド一族に手なずけられた岩倉具視や伊藤博文らが天下を取ることになったのです。
 
 
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