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 危機の日本人
山本七平・著  角川書店
 
 
 宣教師たちは日本をどう見ていたか

 「自主性」「傲慢」「創造性」で序章をはじめたのは外でもない。それとやや似た批評は天正5年(1577年)に〔書かれた〕宣教師コスムス・ワルレンシスの書簡の中にもあるからである。藤本博士の抄出から、次に引用しよう。
 「日本人はまた理解力に富むのみならず、想像力にも富み、自ら、世界のいずこの民族にも劣れるものにあらずと確信すれば、その見識は自然に高く、外人と邂逅(かいこう)しても、ただこれに賤視(せんし)の一瞥を与うるのみなり。彼らはよく善悪を識別す」
 彼の来日はザヴィエルの来日から27年目だから、ある程度の予備知識はもって来たであろう。ではザヴィエルやそれにつづくフロイスの印象はどうだったのであろうか。
 「第一に、余の考えにては日本人ほど善良なる性質を有する人種は、この世界にきわめて稀有なり。彼らは至って親切にして、虚言を吐き詐欺を働くがごときことは、かつて聞きも及ばず、かつ甚だしく名誉を重んじ、その弊はかえって彼らをして殆ど名誉の奴隷たらしむるがごとき観あるに至れり」
 「日本人は学を好み、他国人よりもよく道理に通ずるも、未だ地球の球体なること、およびその運行の事を知る者なかりしゆえ、余らその理由その他天文に関する事を説明せしに、彼らは喜びてこれを聞き、かつ上流の人は、余らを敬慕してますますその説の蘊奥(うんのう)を叩〔啓〕けり。彼らは才知と勇気とに富みて心ゆたかに学を好めば、真理を信ぜしむるには十分の見込あり」

 「生来、道理に明らか、盗みを憎む……」

 以上がザヴィエルの書簡だが、フロイスの1565年の書簡には次のように記されている。
 「……日本の貴人はみな礼儀正しく教育よく、喜んで外国人に会い外国のことを知らんと望み、きわめて些細なる点まで聞かんとす。彼らは生来、道理に明らかなり。盗みは彼らの最も憎むところにして、ある地方に於ては盗みをなしたるものは何ら手続を踏むことなく直ちにこれを殺すを得、鎖なく牢獄なく司法官なく各人は自家に於て判事たり。故にこの国の良く治まらざるを得ず、罪は見のがされず、また譴責によって免除されず、直ちに犯人を殺すがゆえに、恐怖によりよく統治せらる」
 以上の3つの書簡はすべて関ケ原の前、いわば16世紀に書かれたものである。だがそれにつづく多くの書簡等も、日本人の礼儀正しさ、犯罪への強い嫌悪感、知的好奇心の旺盛さを記している。以下引きつづいて、17世紀、18世紀、19世紀の、いわば「外人」の日本人観を紹介したいと思う。それが比較的客観的なのは、この時代と徳川時代の大部分において、多くの外国人は日本のこういった特性が自国にとって危険なものとは見ていないことによる。
 日本人は、彼らにとって、海の彼方の島国の珍しい民族であり、これを、一種、好奇の目で眺めているだけである。だがこれが幕末、すなわち19世紀になると、意外なほど早くから日本警戒論が出てくる。しかしそれは一先ず措き、ここではその前の幕藩体制時代の日本人評からはじめてみよう。
 家康の顧問となった三浦按針(あんじん)ことウィリアム・アダムズは、イギリス本国への書簡の中で次のように述べている。
 「日本人民は性質温良にして礼儀を重んずること甚だしく、戦いに臨みては勇剛なり。国法を犯したるものは厳刑に処して仮借するところなく、法を用うること公平にして今や国内太平なり。蓋(けだ)し内政よろしきを得ること日本国の如きはまた他にあらざるべし」

 
「士商工農」と見なしたオランダ人

 これが徳川中期となるとオランダ人の日本人観が加わり、またオランダ商館に雇われたドイツ人やスウェーデン人──たとえばケムプエルやツンベルグ──などの記述が加わる。さらにヨーロッパでは、日本関係の資料を集めたものや、16世紀の宣教師が送ったものを編纂した『日本西教史』などが出版される。
 次は17世紀中ごろのオランダ人モンタヌスが蒐(しゅう)集し、『オランダ使節日本紀行』の中に収録したものである。
 「官吏(武士?)、商工民、農民等には多くの徳あり。第一に彼らは概して善性なり、親切にして愛すべし、その理解は俊足、記憶もよくまた想像力にも富めり。その正確の判断および学問等に於ては、独り東方の諸国民に超越するのみならず、われら西洋人にすらもまさる。されば彼らの田舎人、また教育を受けざる児童の如きにても、その懇切典雅なるに於て、あたかも一紳士なり。彼らはわれらヨーロッパ人よりも早くラテン語、諸種の工芸科学を知得す。貧なることは日本人にありては恥とせられず、かつこれがために人に賎(いやし)めらるることなし。彼らは常にその居宅を清潔にし、衣を更(か)えて人を訪れる。すべて粗野なる語を発し大声に語るがごときことを忌み、貧賎、偽誓、または遊蕩もまた甚だしく厭わる。名誉を得るの欲望頗る盛んなるも、またあえて己れの上長を敬するを忘れず、名誉のためには何事も犠牲にす。偽りて人を訴うるは波らに於ては罪人なり。故に下賤の人にても、人に邂逅(かいこう)するときはこれに相応の尊敬を表し、たとえその人の不在の時にでも、決してこれを悪しざまにいうことなし。貴人の会話は主として他の功名美徳の讃美雅称なり。たとえ下賤の日雇人にてもその日常、敦厚(=篤実で人情に厚いこと)ならざれば、雇主は直ちにこれを解雇す。要するにかかる人物を用いて争闘の起ることのなからんことを心とするのみ。されば人びと、たとえ古き怨みを心に懐くとも決してこれを言辞に表わさず、わずかに悲しき不満の面持をなすに止まり、事の善悪曲直にかかわらず、これと争い、または人の仲裁を求むるがごときことのあることなし。すべて多言は日本人にありては品位ある人びとを大成さす所以にあらずとせらるれば、その街道に出でても、通行する平民にいささかのいさかいあるをも見ることなし。夫と妻と、親と子と主人と僕との間にはもちろん衝突なし。何事も沈黙静謐(せいひつ)に葬り去られ、何事かの小破綻ありとしても、これが友人によりて繕われ、和解せらる。たとえその非行を罰することありとするも(かくのごときことは極めてまれなれども)これに対して用いる語はすべて温柔なり。このゆえに日本人には、われらヨーロッパに於けるが如き法廷なく、法律なし。彼らは私怨をば公敵に対する戦争に於て償却す。いかなる時にも己れの不幸困難を愁訴せず、また己れの損失を憂えず、心をむしばむ激しき悲哀が胸裡に存するとも、よく楽しげなる顔貌を以てこれをおおうの驚くべき能力を有す……」
 以上のような記述のほかに面白い点は、オランダ人はこの日本紀行の中で日本の階層を士農工商ではなく、士商工農と見ている点である。徳川時代の日本の現実を見たものが、そのように見ても不思議ではない。

 
「飢渇寒暑に屈せず、勤務に倦怠せず」

 さらに1689年刊行のフランス人J・クラッセの「日本西教史」には次のように記されている。
 「日本人は物に堪え忍ぶ驚くべき美質あり。飢渇寒暑に屈せず勤務に倦怠せず、商人なども粗暴の挙動なく、実に親切ていねいに、職工農民などの卑賤に至るまでもヨーロッパとは反対なれば、知らざる者は彼らがみな宮中にて教育を受けたりと思わんほどなり……」。
 「日本人一般の気質として名誉を重んじ、自分が賤視せらるるを嫌忌すること外国人の比すべき所にあらず、事々物々みな名誉面目の念によりて拘束せられざるなし。従って彼らは一途に自分の職務に精励し、いかなる小事といえども、不当の行為に出ずることなく、またこれを口外せず。日本人はその身分に準じ義務責任を怠らざるにより、不正の言語を発し人を損うこと少なく、諸人互いに尊敬し合う。なかんずく貴族等の礼讃に至りては位階・順序・立居振舞・進退の容儀を以てこれを表すがゆえに、ことごとくこれを解明すること難し。下賤貧困のもの共にても相互の間に敬礼あり……日本人は貪欲を嫌忌し、もしひとり貪欲なるものある時は目して卑劣にして廉恥なきものとす。これまた、その名誉を希望するに因るなり……」

   ★なわ・ふみひとのコメント★
 
文語体なので読みづらいところもありますが、根気よく目を通していただきたいと思います。来日した外国人が見た日本の姿については、当サイトに早くから掲載している
『逝きし世の面影(渡辺京二・著/葦書房)にも紹介されています。それと同じようなことが、本日ご紹介した外国人たちによって述べられています。古きよき時代の日本人がいかに気高い民族であったかがうかがえる内容です。いまや外国並かそれ以下の賤しい民族に貶められてしまったこの国に生きる私たちとしては、名誉を重んじた民族の血を受け継ぐものとしての自覚と矜持は失わずにおきたいと思います。

 
 
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