実録・幽顕問答より
古武士霊は語る

近藤千雄・著 潮文社


 加賀武士の出現

 さて、宮崎氏はいったん刀をサヤに収めて信太郎に手渡してから奥の間に退き、そこから病人の様子を窺っておりました。その時、内心ではすでに人霊による憑依の可能性を考慮していたことが、次の傍注から読み取れます。

人の霊魂の人体に宿りし事は唐土(中国)にも品々ありて、「鬼神新論」にその証を数々記されたり。又わが国にも数多く国史に載せて在り。宗像大宮司の母の亡霊などの殊に熾(さか)んなりし事は「宗像記」及び貝原(益軒)氏の記録などを見て知るべし。見識狭き学者かつ偏屈の性質の者はこの世に異(常現象)はなきものと定めたるこそおかしけれ。この天地の広き間、長き年数の間をおのが心のごときものと思い居るなるべし。(中略)真実の恠(しるし=霊的兆候)あれば又偽りの恠あり。偽りは野狐の類(動物霊)が物真似をしてなすなり。その霊言は何ごとにもある事なれば、虚に惑うこともあることなり。余、狐を落す(見破って除雪した)五、六、七度に及べり。(後略)

 さて平伏の状態をしばらく続けていた病人は、やおら頭を上げると、なぜか信太郎が持っている刀の方へ目をやり、何か意味ありげな目つきで見上げそして見下ろしてから、「それをおぬしの膝の上に置け」と言わんばかりの目くばせをしました。
 先ほどから兄市次郎の物凄い形相に恐れおののいていた信太郎はその目くばせを食らって縮み上がってしまい、席を立って逃げようとします。すると父の伝四郎が大声で
「その場を動くな! 恐れるでない! わしをはじめ大勢の者が控え居るぞ!」
と怒鳴りつけました。さらにその余勢を駆ってこんどは市次郎の方へ向き、鋭い目つきでこう言い放ちました。
「お前なんぞ恐ろしくも何ともないぞ! この上は有難き神法“蟇目(ひきめ)の矢”にかけて打ち払ってもらう故に、そう覚悟いたせ!」
 そう言い放ってから伝四郎は宮崎氏のところへ行って
「かくまでにご加持をしていただいてもなお正体を現さぬ以上は、蟇目の矢、又は鳴弦(めいげん)の御法にて打ち払っていただくほかはござらぬ。何卒お頼み申す」と述べました。
 神道には“蟇目鳴弦の法”という修法があります。天照大神から授けられたという天の羽々矢、天の杷弓(はじゆみ)の故事にもとづく尊い修法と言い伝えられています。宮崎氏はこれを承諾しましたが、念のためにもう一度病室へ行って信太郎の持っている長剣を手に取って抜き払い、市次郎の喉元を切りつける所作をしてみました。
 すると驚くどころか、こんどは一礼してから前に置いてある燭台のローソクを右手で取って、左手は膝の上にきちんと置き、威儀を正し、目の前に差しつけられた剣先をローソクの灯りで念入りに熟視するのです。どうやらその剣に見覚えがあるような面持ちです。
 宮崎氏は何度も神文を唱えながらその剣で突きかかる所作をしましたが、少しも動ずる気配を見せません。そこで宮崎氏は剣をサヤに収めてから吉富養貞氏に近づき、かくかくしかじかのことを貴殿からとくと申し聞かせてくれるようにと頼みました。それを受けて吉富氏は市次郎の前へ進み出てこう言って聞かせるのでした。

事ここに至っては止むを得ず次に用意せし蟇目鳴弦の法をもって射放ち打ち砕かねばならなくなったが、そもそもこの神法は天照大神の授け給いし天の羽々矢、天の杷弓の御故実にして神々守護の弓道なれば、此所に行いても彼所に応じ、顕世に行いても幽界に通じ、たとえ幾百千里を隔つとも、此の法を修めれば、その敵に当たらずということなく、一矢を放てば総身に響き、二矢を放てば四十八骨に徹し、三度四度に及びては、いかなる邪気も人体を離れざること能わざる神法なり。
 かくて十矢に至れば離れたる邪魂は雲霞のごとくに消失し、人体を悩ませてその望みを達せんと思いたることは却って我が身の仇となり、魂魄永く死滅の憂き目見るなり。余は敢えて生を害すると好むにあらざれど、汝、今人体に憑(かか)りてこれを悩ますが故に、この道に仕える身の黙しかねて、ここにこの神法を施さねばならぬが、念のために今一度汝の心底を質しておく。
 たとえ一命を失いても汝はこの家の一子を滅ぼす気か、それとも他に望みありて取り憑きたるか、二者いずれか速やかに答えよ。もしあくまでも肉体を離れぬとの一言を吐かばやむなく直ちに弓矢の法を修する。これを鎌かけの脅しと侮り、後悔するでないぞ


 一体なぜ宮崎氏は自分から直接言わずに吉富氏を通じて言って聞かせたのかと思われる方も多いことでしょう。それについては宮崎氏自身、傍注でこう説明しております(現代語訳)。

このあとの数力条はみな医師吉富氏を間に置いて言い継がせたものである。先方が述べているのを聞きながら次に述べるべき内容を考えるためである。この種の問題では直接談判ではとかく誤ることがあることは、こうした場面に何度も出会って心得たことである。ただし記録そのものは煩わしさを省くために直談のように書いておく

 吉富氏の言葉が終わるや否や市次郎は被っていた布団を押しのけて正座し、両手を膝に置いて一礼し、ついに口を開いてこう述べました。

「これほどまで懇(ねんご)ろに正しき筋道を立てて申される上は、もはや何をか包み隠さん。そこもとのご疑念はもっともなれど、余は怪物でも野狐の類いでもござらぬ。元は加賀の国の武士にて、故あって父とともにこの地に至り、無念のことありて割腹せし者の霊なり。これまで当家に祟(たた)りしが、いまだ時を得ずにまいった次第。一筋の願望あってのことでござる」

 一人の武士が数百年後の天保の時代に霊として戻ってきて、地上の人間の口を借りてしゃべる――そんなドラマチックな現象の幕がついに切って落とされたのです。
 読者の中にはなぜその武士は初めから素直に語らなかったのかという疑問を抱かれる方もおられることでしょう。その理由はただ一つ、生身の人間の体に宿ってしゃべるということはそう簡単にできることではないということです。
 その大変さは、われわれが赤ん坊の時にカタコトをしゃべる段階から始まって十分に言いたいことが言えるようになるまでに、どれほどの時間と努力を必要としたかを考えてみれば容易に納得がいくはずです。ましてこの霊の場合は、その身体の主である市次郎の霊を無理やり脇へ押しやって、その潜在意識を勝手に使用しているのです。当然そこにはそうさせまいとする市次郎の無意識の抵抗があるはずです。
 今「無理やり脇へ押しやって」と述べましたが、霊言霊媒となるべき使命をもって生まれてきている人間の場合は先天的に受容性をそなえているので、そこに抵抗というものが生じません。しかしそうした天才的霊媒の場合でも、支配霊が完全に使いこなせるようになるまでには、霊界において並々ならぬ努力と勉強が人知れず行われているのです。
 たとえば英国の名霊媒モーリス・バーバネルの口を借りて毎週一回の割りでほぼ半世紀にわたって(一回が一時間から一時間半)語り続けたシルバーバーチと名のる古代霊は、そのための準備をバーバネルが母胎に宿る前から始めて、宿った瞬間から活動を開始し、その言語中枢の使用方法に慣れるよう努力する一方で、英語の文法や構文、熟語、ことわざ等を、日本の受験生が行っているのと同じように勉強してきたと言います。
 それほどまで準備したシルバーバーチでさえ、入神したバーバネルの身体に宿ったとき、われわれが深い眠りから覚めたばかりの時と同じように、深い内容の話ができるようになるには少し間がいりました。「今しばらくお待ちください。もう少し入神の度を深めますので……」というセリフを述べることがよくありました。
 これで市次郎の体に宿った霊が容易に口を開かなかった理由がお分かりと思います。数百年ぶりに現界に出てみて、その雰囲気を取り戻すのにも暇がいりますし、発声器官を使用するのにも準備がいります。宮崎氏が四苦八苦している時、その霊も市次郎の体の中で潜在意識の操作に苦心していたはずです。
 そのうちどうにか落着いてきて、ついに口を開いたのでした。

宮崎「何の目的あってこの地に来たり、いかなる無念なることありしか。また、いずこへ行くために来るか。この家にはいかなる縁ありしか。父も同じくこの地にて死にたるや」

「余は父を慕いてはるばるこの地に来たりし者なるが、父はこの地にて船を雇い、単身肥前国(佐賀県)唐津へ赴きたり。別れ際に父は余に向かい「汝は是非ともこのまま本国(加賀)へ帰れ。一歩たりとも余について来ることはならぬ」と言い放てり。この事には深きわけありて、今あからさまには告げ難し。さらに余が強いて乗船を乞うとも、父はさらに許さず、「どうしても帰国せぬとならば、もはや吾が子にあらず」と申せり。かくまで厳しく言われては子たる身の腸に徹して、その言に従うこととなれり。さりとて、本国へは帰り難き仔細あり。父が出船せしのち、取り残されたる吾が身は一人思いを巡らせど、義に詰まり理に逼(せま)りて、ついに切腹して相果て、以来数百年の間ただ無念の月日を送りたり。吾が死骸は切腹したるまま土中に埋められ、人知れず朽ち果てたり……」

 こう述べた時には目に涙を浮かべ、世にも悲しげな面持ちだったといいます。
 右の言葉の中の「国元へ帰り難き仔細」については後章で本人が改めて詳しく物語る場面が出てまいりますが、ここでかいつまんで説明しておきますと、この武士の家は加賀でも相当な誉れ高い家柄だったらしく、殿から三振りの刀を下賜されたほどでした。それが時代劇を地でいくようなお家騒動があって父親が濡れ衣を着せられ、殿のお咎めを受けて国外追放処分となりました。
 その出国に際して当時十七歳だったその武士もぜひお伴をさせてほしいと願ったのですが、お前は吾が家のたった一人の男児なのだから居残ってぜひ家を再興してくれと頼み、母親にもその旨をしっかりと言い含めておきました。が、その後も父を慕う思いを抑え切れず、母親の制止をも振り切って伝家の宝刀を携えて出国し、諸国を訪ねて歩いて六年ぶりに父に再会したのでした。

 ここで宮崎氏が尋ねます。

宮崎「その無念はさることながら、何故にまたかくも長いあいだ当家にのみ祟りをなすや。他家にも祟られしことがおありか」

「当家には故あって祟るなり。他家にも祟りしことはあるものの、ただ病気にかからせるまでのことにて、かくのごとく言語を発したることは一度もござらぬ。これまで当家に尋常ならぬことが頻発したるはみな余が遺骸の埋もれたる場所より通い来て為せるわざにして、同じ災厄が代々起こりしもみな余のせいでござった。早くそれを気づいてくれて祀ってくれなば有難かりしものを、それを気づいてくれる者の無かりしが無念でなりませぬ。四年前に当家の祖父も余の遺骸の上にて大病にかかり、この度この市次郎も余の遺骸の上を踏みし故に、余は瘧(ぎゃく=注@)となりてその身に憑(つ)けり。二十三日の早朝に余の鎮まる場所に気づいて砂を掘り、浜に棄てしはもってのほかなり。ために余は行き場所を失いたり」

注@瘧(ぎゃく)――マラリアに似た症状で、寒さや震えや高熱が一定の間隔において繰り返される病気。かつては“おこり”などと呼ばれていた。
 
← [BACK]          [NEXT]→
 [TOP]