実録・幽顕問答より
古武士霊は語る

近藤千雄・著 潮文社


 火事騒ぎ

 私は前節に「ついに宿願なる」という見出しを付けましたが、正確に言えば三年ないし四年後に石碑を建ててもらう約束を取り付けたということでした。
 人間の感覚では三年四年というといかにも遠い先の話に聞こえますが、霊界の時間は主観的なものですから、意識の持ち方一つで長かったり短かったりします。この武士の場合はずっと現世とのつながりの中で生活していたので時代の流れを逐一把握しておりましたが、同じく地上圏をうろついている地縛霊でも、精神的な暗闇の中で悶々として過ごしている霊の場合は、招霊して今はいつの時代かと尋ねてみると、江戸時代だったり鎌倉時代だったりします。
 そのことで私の娘の幼児期のことを思い出したので参考までに紹介しておきますと、確か五、六歳の頃でしたが、ある日の午後から餓鬼のように食べものを欲しがるようになりました。もともと食の細い子なのですが、その日ばかりは目つきまで異常なのです。翌日になっても同じなので、ふと前日のことが思い当たりました。それは前にお話した通り当時は無縁墓の供養の会に加入していて、その前日の午前中に近くの寺の無縁墓の掃除をしたばかりでした。
 無縁となっていることを示すチョークの印がしてあるのを一つ一つきれいにしてあげていくうちに、一つだけ小さな自然石の墓があり、それに私がさわったとたんに、もろくも崩れてしまったのです。失礼なことをしたと思って元通りにしようとしたのですが、何しろ風化寸前の状態で思うにまかせないので、詫びだけ述べて帰りました。
 その日の夕方から娘がそんな状態なので、もしかしてと思って翌朝その墓に戻って消えかかっている文字を読みますと、やはり童女の墓で、なんと天保五年となっていました。そこで、ふと思い出して家に帰って歴史を調べてみると、やはり、かの有名な“天保の大飢饉”は天保四年に始まり同七年をピークとして全国で莫大な数の人が餓死しています。その子もその犠牲者の一人で、今なお食べものを求めてさ迷っていたに違いないのです。
 そう判断した私は、子供の好みそうなものをあれこれと取り揃えて墓前に供え、その霊に呼びかけるように心の中で、もう死んでいることを説いて聞かせ、もうすぐ誰か(指導霊)が近くに来るから素直について行きなさいと諭してやりました。娘の異常な食欲もそれきり出なくなりました。
 これなどは私がたまたまその墓を崩したのではなくて、その子の背後霊がやむを得ない手段としてそうやって私を利用してその子を救済したのです。しかし、そうした救済の手が届かず今なお死んだ時のままの状態で苦しんだり戦ったりしている霊がたくさんいるのです。たくさんといっても、実際の数からいえば救われる霊の数の方がはるかに多いのですが、中にはこの幼女や泉熊太郎のような例外的な事例があります。そうして、得てして真実というものは例外的な事例から教えられることが多いものです。

 さて、市次郎の騒ぎはともかくも一段落して、家族の者はもとより、関係者一同はほっと胸をなで下ろしました。市次郎の病気だけでなく、代々続いた凶事の原因が加賀の武士の霊で、その地で割腹自殺した無念を晴らすために石碑の建立を頼むのが目的だったことが分かり、分かってみればなるほど無理からぬ事情であるとの理解もできたわけです。
 明くる日の二十五日は宮崎氏は近くの漁村での大漁祭の施行を頼まれて出張しました。さらにその翌日になって吉富医師から書状が届き、市次郎の病状が少しばかり快方に向かう兆しが見え、家族の者はいうに及ばず関係者一同慶賀に耐えない旨を述べ、今回の稀にみる霊現象の事実を自分も記録しておくつもりだが、貴殿もぜひ書き留めてもらいたいとの依頼で結んでありました。
 大漁祭は二十八日で、それを終えて帰宅した富崎氏は翌二十九日に市次郎を見舞ってみました。市次郎はふとんの上に起き上がってはいましたが、元気そうにありません。
「どうじや、七月四日以後のことを憶えておるか」と宮崎氏が尋ねると、市次郎は弱々しい声で
「七月四日、祖父の墓に詣でた時に全身に悪感を感じ、頭痛がして気分が悪く、甚だ苦しかったことまでは記憶しておりますが、帰宅後のことは一切知りません。ただ夢の中で、大きな楼閣があってその広庭の中の美しいところに公卿と覚しき人々があちらこちら逍遥している姿を見ました。その夢が覚めると同時にわれに帰りました」
と答えました。月も変わり日を追って快方に向かっていたものの、相変わらず節々が痛み手足の自由が利かないのが口惜しくてならず、自分の無意識の間の出来事をつぶさに聞かされて
「かくまでわれを悩ますとは一体いかなる武士の霊魂か」とか
「人も多いというに、われに何の過失があるというのか」とか
「全快の上は墓を掘り返して恥をかかしてくれる!」といった憤まんの言葉を漏らすのでした。
 そんな折、その家に火事が起こりました。最初に紹介しましたように当家は代々酒造をもって家業としており、その年すなわち天保十年の夏の初めには醸造用の大竈(かまど)を改築する予定になっていて、そのための土まで用意して準備万端が整った矢先に、今回の憑霊現象が勃発して工事が中止されておりました。
 が、九月に入って市次郎の病状も快方に向かいはじめたので、いよいよ改築工事に着手し、まず古竈を取り崩してその土を浜辺に棄て、用意しておいた土で新竈を築き、それに大釜を掛けました。
 ところで、日本の伝統的慣習として、何事にせよ新築と改築に際してはお祓いをするのですが、悪いことが起きる時は何かにつけてチグハグになるもので、あらかじめ産土神社の山本宮司に依頼してあったのが、その山本宮司が他用で出張して不在でした。普通ならば一日延期してでもお祓いをするところですが、市次郎の騒ぎで二カ月も遅れている焦りから、お祓い抜きでやってしまおうということになりました。それが九月十一日のことでした。
 まず清酒一石五斗(一升ビンで一五〇本分)を大釜に入れ、新造の大桶を竈のそばに据え、それから竈に火を入れました。そして清酒が煮上がったところでそれを大桶の中へ流し込みました。すると忽ち桶のたがが弾けて切れ、流れ出た酒が竈の中に入ると見る間に、酒が火焔となって燃え上がり、一面火の海となりました。
 半鐘が鳴り響き、村中から大勢の人々が駈けつけました。そのとき隣家の桝屋兵吉という人が役宅(床屋事務所)の方を案じて走って行ってみると、病床についているはずの市次郎が神棚の下に正座し、物凄い形相で火焔の方を睨みつけております。変だなとは思いながらも、何しろ火事のまっ最中ですから、そのまま戻って火消しの手伝いをしました。
 そのうち火事は不思議に大したことにならずに鎮火しました。当家ではこれはてっきりお祓いをせずにやったバチに相違ないということで、生松神社の宮崎宮司を船で迎えに行きました。が、迎えに行っている間に山本宮司が来ており、宮崎氏が到着した時にはすでに行事は終わったあとでした。
 しかし折角お出でいただいたついでに、ということで主人の伝四郎が宮崎氏に
「竈のことはお蔭さまでもはや気遣いはありませんが、ただ市次郎がこの火事騒ぎのあとから頭痛が激しく、鎮火後から横になったままですので、折角のお出ましを幸い、ご加持をお頼み申し上げます」
といった主旨のお願いをしました。
 ところで、このお祓いとかお清めといったものはどうやら日本独特のもののようで、しかもスピリチュアリズム的にみても実に理に適った知恵といえるかと思います。
 これまで何度か説明しましたように、自然界のウラには精霊が存在して、地球の生成発展を促進しております。本来は形態をもたずただの“精”なのですが、その時の情況次第で自在に形態を整えます。たとえば霊視能力をもった人の前に現す姿は、ほぼ人間に似た形をとります。可憐な花は可憐な乙女の姿、ずっしりとした老松はいかにも武骨そうな、ずんぐりとした姿、といった具合で、これが人間の気味悪がる土中の生物となると、やはり気味の悪い恰好をしており、性質においても人間には馴染めないところがあります。
 西洋の霊界通信の中には精霊のことを“半理知的原始霊”と呼んでいるものがあるのをみても分かるように、“知性”は発達しておりませんので、その意味では人類より進化の程度は低いのですが、蜂がどうかすると怒って襲いかかることがあるのと同じで、人間が勝手な振舞いをすると精霊も反抗的態度を見せることがあります。
 そこで、その土地に住みついている精霊への礼として供えものをして和めたり、古いものを廃棄する前に感謝の祈りを捧げたり邪気を払ったりする必要が生じるわけです。針供養などというのは、それからさらに発展した日本人特有の心情が加味されていて、ほほえましささえ覚えます。
 しかし、本書の冒頭の加持祈祷のところでも述べたことですが、こうした行事で一ばん大切なのは思念であり、高い波動ですから、最終的には施行者の“霊格”が物を言うことになります。霊的原理の理解のない人が形式だけ行ったのでは何の効験もありません。
 同時に、この加賀武士の霊が何よりの好例であるように、その土地にまつわる因縁はその因縁霊の得心が得られないかぎり解決しません。それともう一つの要素として、因果律の働きによって生じる運勢の波動は人間の力では如何ともし難いものがあります。これについてはこのあと泉熊太郎が再度出現して語ってくれます。
 
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