実録・幽顕問答より
古武士霊は語る

近藤千雄・著 潮文社


 最後の訓戒

山本「さて、箱もすでに出来あがり海水にて洗い清めおきたり。おいおい遷(うつ)り給え」

「まことにご苦労に存ずる。用意万端整いなば即刻遷り申すべし」

吉富「いよいよ離れられる段になりてはいささか名残惜しき心地せり。今少しお尋ねしたき儀がござるが…」

宮崎「箱も出来たればこれより神事を取り行うことと致すが、その前に先夕聞き落とせることをお尋ねしたい。帰幽すれば霊は上下ともいっしょに集まりて、そのまま万代までも同じ状態のままなるや、それとも時とともに変化するものなるや。そもそも霊には一人一人形体がそなわれるものか」

「先月も申せしごとく、幽界の事はあからさまに顕世に濡らし難き事情あり。聞かせて益なく、語りても耳に入るものにあらず。耳に届かざることは聞きてちかえって疑心を誘い害となるべし」

宮崎「余は幽冥のことどもを疑う輩のために聞くにはあらず。余自身、実相を聞き天地の真理を知る一助と思えばこそ聞くものなり。たとえ聞きて耳に届かざることありても、それはそれで止むを得ぬこと。この件につきて一応お聞かせあれよ」

「さらば一言語りおくべし。尋常に帰幽せる霊は同気の者にかぎりて一所に集まりおれど、そはただ居所が同じというまでにて多くの霊が一つになるにはあらず。志の同じ者は幾人に ても集合して一つになることあれど、そは一時のことにて万代までも一つになるにはあらず。霊の形は顕世と同じく折にふれて少しは変わることもあり。また中には主宰の神のお計らいにて再び顕世に生まれ来る者もあり。それらのことは長く霊界におれば次第に明らかになるものなれど、奥深きことは拙者がごとき凡霊の遠く及ばざること甚だ多し。
 顕世にありし時、忠孝その他の善事を努め、誠実に心を尽くしながら報われずして帰幽せる者は、霊界にて報われて魂は太くかつ徳高くなり、現世にてその報いを受けたる者は帰幽後は人並みの取り扱いを受くるに過ぎず。さらにまた、帰幽後に新たに功を立てて高くなる霊もあれば、現世にては善人なりしが、帰幽後に怒り(憎悪)を抱きて卑しき霊となる者もあり」 (下線近藤)

 ここまで語った時に作次郎が白木の箱を持って入り、一方杜氏頭が注連縄(しめなわ)を海水で清めて持ち帰ったりして周囲が慌ただしくなり、話がいったん途切れます。箱を机上に置き、それに注連縄を張り終わると、霊は訓戒の言葉をこう締めくくりました。

「先月も申したるごとく、在世中に見たることは死後もよく覚えおれど、死して後の現世のことはよくよく意念を集中せざれば明らかには知り難きものなり。霊の世界も現世と同じごとくに認知せらるるものなり。これを思えば、貴殿のごとく霊のことに心を止められれば、死後の事情も知らるることもあるべし。死して後は現界のことを知り得ても一向に益なし。
 これを思えば、現世にある者がみだりに死後の事情を知りても為にはならざるべし。さらば諸宗が説ける俗説に惑わさるるべからず」(下線点近藤)

 この最後の訓戒はいよいよもって泉熊太郎が自分で言っているような“凡霊”ではないことを証明していると言ってよいでしょう。私が下線を施した箇所はいずれも『永遠の大道』のマイヤース霊や『霊訓』のインペレーター霊、それからシルバーバーチ霊などが説いていることを日本流に表現したまでで、言っていることはまったく同じです。
 たとえば「同気の者にかぎりて…」のところは、インペレーターのいう“親和力の法則”とマイヤースの“類魂説”とシルバーバーチのいう“インディビジュアリティ説”をいっしょにしたような内容となっております。その解説だけで一冊の書物になってしまいますので、関心のある方は各書を繙(ひもと)いていただきたいと思います。
 次に「霊の世界も現世と同じごとくに認知せらるるものなり」という言葉は是非とも認識を新たにしていただきたいところで、少しばかり解説させていただきます。
 これを言いかえれば「死後の世界も主観と客観の生活が営まれている」ということです。死後の世界は思念の世界であるという言い方をすると、こうして物質界で五感を中心に生活している人間にとっては物質の方が実感があり、思念は実体のない、取りとめもないもののように受け止められがちですので、思念が実在であるということがピンとこないのが一般的です。
 しかし、般若心経の色即是空をもち出すまでもなく、最近の物理学の発達によって、われわれが五感で受けとめているような有形の物体というものは実は存在せず、すべては波動の原理によって構成されていることが明らかとなり、われわれが固いとか柔らかいとか、熱いとか冷たいとか、甘いとか苦いとか感じているのは実は感覚神経の仕組みによりてそう思わされているに過ぎず、一種の錯覚であることが明らかとなりました。つまり霊がそういう媒体を通して間接的に感じ取っている――言ってみれば手袋をして物を握っているようなものです。
 さて、死によってその物体身体から離れると、自我はこんどは霊的身体を媒体として生活します。霊的身体にも何種類かありますが、それはここでは深入りしないことにして、その霊的身体は物的身体に此べてはるかに精妙ですので、意念の働きに敏感に反応し、形体が自在に変化します。が、物的身体にはそれに相応しい霊的感覚がそなわっていたように、霊的身体にはそれに相応しい霊的感覚がそなわっていて、その世界はその世界なりの実感があり、客観性もあるわけです。霊に言わせると地上にいた時よりはるかに実体感があるといいます。いってみれば手袋が次第に薄くなっていき素手で握るのと同じようになっていくわけです。
 その過程が進むと理屈の上では最後は実在そのものの世界へと突入していくのですが、そこがどういう世界であるかは、私が信頼を置いている霊界通信の通信霊はことごとく「よく分からない」と述べております。死んでみなければ死後の世界が実感できないように、実際にその実在界へ入ってみなければ、その真相は分からないのが道理でしょう。しかし少なくとも霊的身体の精妙化が進むにつれて実在へと近づいていくことは確かですし、それは言いかえれば地上的感覚から遠ざかることを意味し、「奥深きことは拙者がごとき凡霊の遠く及ばざること甚だ多し」ということになるわけです。
 この武士などは謙虚に、そして正直にそう言ってくれるからいいのですが、少しばかり霊的能力が発輝されると、自分で知り得た範囲のことがすべてであり、最高界のこともすべてが分かるなどと豪語する自称霊能者がいるから困るのです。それはそもそも哲学的にあり得ないことであり、また地上の人間にとって不必要でもあります。
 世界的宗教家、たとえばイエスや釈迦は決して難解なことは説きませんでした。この世での心の持ち方を説いただけで、死後の世界のことは存在することを述べただけです。神学や仏教学に説かれているような、大辞典や専門書を繙(ひもと)かないと理解できないようなことは述べておりません。それはみな後世の学者がそういうものにしてしまっただけで、“キリスト教”だとか“仏教”といった組織的宗教にしてしまったのも後世の人たちです。
 武士が最後のところで「みだりに死後の事情を知りても為にはならざるべし」と述べているのはそのことを言っているのであって、要するにそれはみな人間の俗説であって、霊界の実相はそう簡単には理解できないし、また為にもならないと言っているのです。
 本書でたびたび引用したシルバーバーチの霊訓の良さはその単純・素朴さにあります。難しいことは何一つ述べておりません。そして「難解な用語を使った、さも高等そうな議論はご免です」と言い、「究極のことは私は何も知りません」と言い、「宗教とは人のために自分を役立てることです」と、ほぼ五十年にわたって語り続けました。私も最後はそこに落ち着くことを、いろいろな霊界通信を読んで確信しております。
 
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