実録・幽顕問答より
古武士霊は語る

近藤千雄・著 潮文社


 病気快癒

 翌十三日になってみると市次郎は再びすっかり病人に戻っておりました。宮崎氏が訪れると苦しげにこう語るのでした。

市次郎「先月末、私の病気は平癒に向かっておりましたのに、家族の者の話によりますと一昨日より例の武士が再び取り憑いたそうで、手も足も痛みが烈しくて…」
 と顔をしかめながら語り、さらに言葉を継いで
「いったい人も多いに何故にこの私を苦しめるのでしょう。聞けばあなた方は彼を神と祀ると申されたそうですが、私はさような気持ちには毛頭なれませぬ。むしろこの病気が治り次第、腹いせにそいつの墓を堀り起こして、うっぷんを晴らしてやりたいくらいです」
 と歯がみをしながら口惜しがるのでした。

 そこで山本氏が宥(なだ)めるつもりで火難の話を持ち出し、その身代わりになったと思えばよいではないかと言いますと
「火難は来る時には来るわい!」
と言って怒りをぶちまけ、ありたけの罵りの言葉を吐くのでした。

 さて、その日の昼ごろまでには諸事も片づき、宮崎氏は七ツ(夕方三〜五時)ごろに帰宅し、前日の問答のメモを取り出して徹夜で草稿を整理しました。
 明くる十四日になって使者が来て、市次郎の痛みが烈しく、昨日の怒りで心労が過ぎたのか重態となっているとのことなので、宮崎氏は近村の浜地玄央という医師とともに当家へ急ぎました。着いてみるとすでに吉富、三木両氏も来ていました。聞くと「病状は甚だ良ろしくありません。まさか霊の障りではないと思いますが、一応加持祈祷をお願いしたい」ということなので、宮崎氏がさっそく修法を行ってみましたが、別に怪しい様子もなく、ただただ病勢が募るのみでした。
 不審と不安のうちにその日も終わりました。宮崎氏は翌十五日から十八日まで神事で東奔西走しましたが、その行く先々でこの度の霊騒動についていろいろな人からいろいろな質問を受けました。いつの世も同じで、やはり賛否両論があり、夜明けまで議論したこともあったといいます。
 帰宅したのは十八日でした。そして明くる十九日の五ツといいますから、朝の六時から八時の間に市次郎の父親伝四郎が一巻の書を懐に入れて訪れ、ここ四、五日の間の市次郎の様子はこれをご覧いただきたいと言って差し出しました。
 見るとそれは吉富養貞氏からのもので、その最後にある興味深い出来事を宮崎氏は「九月十七日市次郎カ病気ヲ神霊顕シテ平癒ナサシメラレル事」と題して紹介しております。それは泉熊太郎の霊が姿を見せて市次郎に霊的治療を施した現象で、この度の心霊現象を締めくくるものとして実にドラマチックといえましょう。ここのところは浅野和三郎氏が美文調でうまくまとめていますので、漢字と送りがなを改める程度で、そのまま紹介しておきます。

《ここ両日は病人の痛みことに強し。よりて桜井の医師美和氏をも招きて五、六人の医師と種々心を尽くせど、その験(しるし)なし。
 十七日の夜には看病人も皆疲れ果て、前後不覚に眠り、病人の市次郎一人つくねんとして心細きこと限りなく、いずれこの度の病いはとても治るまじと観念し腸(はらわた)を絞りてありたるに、ふとそのまま睡気づきウトウトとなりし時、何処よりともなく、いと涼やかなる声にて
「市次郎、起きよ、起きよ」という声聞こゆ。
 誰なるかなと思いて臥したるまま後ろを見れば、年令二十歳余りにして色白く、髪は総髪にて眼光鋭く、身には黒羽二重の袷(あわせ)ようのもの一枚着したる、人品卑しからぬ一人の武士佇(たたず)みいたり。
 市次郎、別に怪しとも思わず「そこもとは何人にや」と問うに、首を打ち振りて返事はなし。よりて市次郎は床の上に起き上がり、右の武士に向かいて座れば、「月いっぱいなるぞ」との言葉なり。
 やがて件の武士は市次郎の背後にまわり、乱れたる市次郎の髪を掻き上げ、頭から肩先、そして腰までだんだんに揉み和らげつつ撫でてくれる心地よさ。総身おのずと汗ばみて、ついうつらうつらとする程に、またも「起きよ」と言う。
 眼を開きてみれば、その人行灯(あんどん)の火にて煙草を吸いおりしが、つと立ちて、この度は前の方へ廻りて胸より腹、そして両腋下まで撫で和らげることやや久しく、市次郎いよいよ心地よきまま、ふとその人の背部を見るに、そこにはΦ形の紋所つきいたり。
 その人「永らくの間汝を悩ましたるは甚だ気の毒なり。されどこれにて身体は本復すべし」と述べると同時に、たちまち煙のごとく消え失せたり。
 ここに市次郎、初めて今見し姿が人間にてはなかりしことを悟り、余りに恐ろしくありしかば、妻を喚び起こして薬を暖めさせて飲みたる頃、夜はほのぼのと明けわたりぬ。
 翌十八日の朝、市次郎は父伝四郎、医師吉富を呼びて夜中に起こりし事をつぶさに語る。その朝より心地甚だ穏やかなり。同人は頭痛が持病にて、八月以来これのみは止まざりしに、今朝は洗い上げたるように気分よろしという。養貞脈を診るに、病ほとんど平癒しおれり。
                 吉富養貞
 宮崎大門雅君玉机》


 これは紛れもない物質化現象です。物質化現象について詳しく述べれば一冊の書物になりますので、ここでは要するに霊がエクトプラズムという半物質体をまとって出現し、ふつうの人間と同じ行動をとる現象と理解していただけばよいと思います。
 西洋では肉親の者と握手をしたりダンスをしたりするのはむろんのこと、キスをしたりいっしょに食事をしたりした例があり、この武士のようにタバコを吸うのは別に珍しいことではありません。この場合エクトプラズムはそこに居合わせた数人の医師たちの身体から少しずつ頂戴したはずで、済めばまた戻されますが、抽(ぬ)き取られている人間の方はその間ウトウトと睡気を催すことがあります。私にもその体験があります。もっともこのシーンでの医師たちは実際に疲れ果てていたに違いないのですが、霊側にとってはエクトプラズムを抽き取るのに都合が良かったはずです。
 さてこのシーンは武士が物質化して市次郎に霊的治療を施したところです。ふつうは治病能力をもった人間を通して霊が行うのですが、そういう人がいないので自分が物質化して人間の代わりをしたわけで、その背後に治癒エネルギーを操る霊団が控えていたはずです。熊太郎自身が治したのではありません。これでお分かりの通り、表向きは武士と市次郎の二人きりですが、実際には物質化現象のための技術を担当する複数の霊と、治療を施す医師団とが控えていたはずです。その霊団の指導で物質化と霊的治療のための好条件を整えたものと察せられます。
 その後市次郎は日を追って元気になり、九月二十九日には完全に平常に復しました。「月いっぱいなるぞ」の言葉どおりになったわけです。そして十月一日には産土神にお参りし、四日には僕(しもべ)一人を連れて宮崎氏のもとにお礼に参上しました。
 その折、宮崎氏が例の〈楽〉の字を見せますと
「すっかり元気になりましたゆえ一昨日は父の留守中に私か触れ状を写そうとしたのですが、まだ手が震えて思うように書けませんでした。これは病中の私の手を借りられたとはいえ、さてもさても見事なものでござる」
と感心し、しばらく宮崎氏と酒を交わしながら話が弾んだということです。
 明けて天保十一年六月に石工に命じて石碑を建立し、正面に宮崎氏の書になる〈高峰大神〉を、その上に市次郎が見た絞所を、向かって右側面には霊直筆の〈七月四日〉を、台石には吉富氏の筆になる年号と銘を刻み込み、同年七月四日に落成式を上げました。
 後日談として、泉熊太郎が約束したことはことごとく実現し、七年後には伝四郎は大庄屋役に、また市次郎は浦床屋役となり、家族も増えて二十八人となったそうです。
 
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