ゴーイング・ウイズィン
シャーリー・マクレーン・著
山川紘矢・亜希子 訳 地湧社
 

 自分に起きたことはすべて自分の責任

 私の近くにある電気器具がおかしくなる時は、いつも私の気持ちにゆがみがあって、宇宙と一体化していない時だった。
 電気器具の調子がおかしくなるのは、何かうまくゆかないと私が感じている時だった。不安になったり、神経質になって心配していたりすると、こうした現象がおきていた。

 人生そのものが過去でもなく、未来でもなく、ただ今だけなのだと、やっと私にもわかったのだ。自分が昔にしたことを気にしたり、自分が将来することを心配したりしていると、“今”を損なってしまう。

 人生に起こることのすべてのことは、互いに関係しているのだから、人生に起こること全部に対して私達は責任を持っているのである。しかし、最初に果たさなければならない責任は、自分の個人的なことに対する責任、本当の意味で自分を大切にするということなのだ。

 他人に自分の期待を押しつけないということこそ、真に彼を愛することなのだ。

 どんな不愉快な事態に巻き込まれても、ちょっと立ち止まって、「どうして私はこんな状態をつくり出してしまったのだろう? いったいこれから何を学んでいるのだろう?」と自分に問いかけると、その事態はもう悲劇ではなく、覚醒への体験となるのだ。

 それからというもの、私は否定的なものはほとんどすべて、私のものの見方の問題であって、その見方は自分で変えられるのだ、と思うようになった。私は自分を、まるで芝居の中の人物であるかのように細かく観察した。そして、自分に質問した。「自分について、今、何を学んでいるの?」
 プロデューサーが約束を破ったり、監督がスタッフの面前で私や誰かを侮辱したり、航空会社が私の荷物を紛失してしまったり、タクシーの運転手が失礼な態度を示したり、友人や恋人が私の気持ちを傷つけるようなことをした時には、いったい、このことから自分は何を学ぼうとしているのか、私は自分に問いかけた。そして、ずっと、こんなやり方で自分自身を学んでいかなければならないのかしら、と思うのだった。
 自分に起きたことはすべて自分の責任だと思い、こんなことをつくり出してしまった自分の力を認めると、諦めがつく、ということに私は気がついた。あの人のせいだと言って誰かを責め続けるのは、自分自身の力を放棄する、ということなのだ。どこか知らないところで、私は自分で不愉快な事態を招き寄せ、対立抗争に積極的に参加している、つまり、自分自身をもっと深く知るために、このような状況を自分でつくり出している。

 このように、ものの見方を変えて見るようにしてから、私の前にまったく新しい肯定的な世界が開け始めた。それは、まるで次から次へと窓を開けて、新しい風景を発見してゆくような感じだった。
 初めてそれに気がついたのは、病気の友人のことを気にしていた時だった。私は彼女をどう助ければよいのか、途方に暮れていた。彼女が飲んでいる薬は飲むべきでないと私は思っていた。彼女はすべてを諦め、自分の人生にも今の状態にもネガティブな態度で臨んでいると、私は感じていた。私は彼女の将来に暗い予想を抱いていた。

 ある時、私はふと思った。彼女のような友人を、私の人生に登場させているのは、何か理由があってのことではないのだろうか? そうだとすれば、ここから何を学べばいいのだろうか? どうして私の人生の芝居の中で彼女にこの役を演じてもらう必要があるのだろう? 彼女は私にとって鏡の役割を果たしてくれているのだろうか? 私が自分でやりたくない経験を、彼女が代わりにやってくれているのだろうか? 私は自分を観察するのと同じように、彼女を観察しているのだろうか?
 このような新しい視点からものを見るということの意味の深さに、私は突然、はっと気がついた。そして、この真理を理解するとすぐ、私は考え方を変えて、彼女の苦しみはもう私には必要なくなったので、彼女を痛みから解放してあげている様子を心に思い描き始めた。1カ月もたつと彼女は元気になり、鎮痛剤もやめてしまった。
 たぶん、これは偶然の一致なのかもしれない。そうではないのかもしれない。彼女に対する暗い気持ちは自分の責任なのだと私が思った時、彼女もまた自分の責任で健康を取り戻そうとし始めたということは事実なのだ。どうしてそうなったのか、未だに私にはわからない、でも、そういうものだと私は信じている。 

 生化学者のルパート・シェルドレイクは形態遺伝フィールド(またはMフィールドと呼ぶ)が、同一種族内部の情報の運び手となっているという仮説を発表した。彼はこの情報の伝達を“形態共鳴”と呼んでいる。この理論は、34年間にわたるウィリアム・マクドーガルの研究によって、実験的にも裏付けられている。
 この実験では、一つのグループのネズミが学んだ新しい習慣を、まったく別の系統の、完全に隔離された場所にいるネズミのグループが、いつの間にか覚えてしまったのだった。もっとも、“覚える”という言い方はちょっと問題がある。ある一定の数のネズミがこの情報を一度獲得してしまえば、全宇宙的にすべてのネズミが、この情報を手に入れることができるのだ。つまり、この情報はネズミのMフィールドに組み込まれたのである。

 結論を言うと、一つの種族のある一定の数の成員によって獲得された情報は、発火点のような働きをする。つまり、その点を超えると、その種族全体が同じ情報を持つようになるのだ。新しい知識は、彼らのMフィールドに形態共鳴という作用によって組み込まれる。その種族が地理的に広く拡散して分布している場合でも、その種族のすべての子孫はその情報を持って生まれてくる。だから、シェルドレイクがMフィールドについて語るとき、彼は空間と時間を超越して作用している素粒子的情報網について語っているのである。

 素粒子の理論の中でニューエイジにとって最も基本的なものは、素粒子(宇宙をつくっている物)の世界では、すべての物がお互いにつながっているという考え方である。宇宙は、影響や情報や光子やエネルギーや電磁波などから成る巨大な複雑きわまるクモの巣なのだ。あらゆる物、あらゆることが他のすべてのものとつながっている。そこには分離などあり得ない。
 このことがわかると、どうしてもニューエイジの哲学の中で最も議論の多い問題に突き当たってしまう。神は我々の内にあり、ゆえに、我々は一人ひとりが神の一部である。という考え方である。お互いを分離するものはいっさいないのだから、私たちはみな神と同じものであり、神は私たちの内にある。私たちは神を体験し、神は私たちを通して体験している。私たちは文字通り、神のエネルギーでつくられており、それゆえに、私たちは自分が望むものは何でも、自分の人生でつくり出すことができる。私たちはそれぞれ、神のエネルギー、つまり宇宙をつくっているエネルギーと協力して、創造を続けているからである。

 私たちのエネルギーがどんどん過密化の速度を速めている今、自分が考えてることにもっと注意を向けることが絶対的に必要になっている。私達は自分の人生の体験をつくり出す責任がある。したがって、自分の想念をきちんと意識し、チェックすることが大切なのだ。
 精神世界に巻き込まれるまでは、私は、自分の想念を選択するということの大切さにまったく気づいていなかった。今ではよくわかっている。自分が恐怖を選んでいるか、怒りを選んでいるか、あるいは、恐怖を拒否するのを選んでいるか、いつも気づいている。私は自分の感情も全部自分で選んでいると知っている。ネガティブな感情を捨てようと選択し、それに成功した時は、そのネガティブな感情が初めから幻想に過ぎなかったことに気づく。
 しかし、幻想も時には役に立つ。たとえば、他の人に対する怒りが、自分自身へ向けた敵意の存在を気づかせてくれることもある。人のことを批判したり許さなかったりする時は、その人が私自身のことを教えてくれているのだ。もし、他の人の中に見たネガティブな面を自分の中で変えることができれば、もっと幸せな自分自身との関係をつくることができる。

 これは決して簡単なことではない。しかし、しばらく続けていると心理的な習慣となってくる。実は、ほんの少しものの見方を変えればよいだけなのだ。私の場合は、最初は否定的に見えたものの中に、少しでもポジティブな点を見つけ出し、それをいつくしむ努力をする。これは、ずっと否定的に反応し続けるよりはましだが、決してやさしいことではない。私もまたみんなと同じように、否定的な感情を理解と学びの方向へ向ける努力をするよりは、他人の中に欠点を見つけ出して批判すべきだと教え込まれていて、それが習い性になってしまっているからである。

 今はもう、私の行動は自分の想念によって支配されていることも、私の想念は自分に対する信頼の有無に支配されていることも、私は知っている。だから、光と理解は私のうちだけでなく、他のすべての人々の内にも宿っているということに思い至った時、自分自身や他人に対する否定的な批判をやめる道を、私は選ぶことができたのだった。そして、否定的な批判はお互いの創造性を損なってしまうということも、わかってきたのだった。
 そして一番大切な仕事は、自分自身を含めたすべての人々に対する私の意識を広げてゆくことだった。それによって、私が今認識している時間と空間の中で、ポジティブな創造性に満ちた宇宙の源と、つながることができたのだった。私の世界は私だけのものであり、私だけが私の世界をいかようにも変えることができるのである。
 
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