心と食物と人相と
谷口雅春・著 日本教文社 1982年刊 
★なわ・ふみひとの推薦文★
 著者(故人)は宗教団体・生長の家の創始者です。代表的な著作に『生命の實相』があります。私は特定の宗教団体に属した経験はありませんが、30代のころに氏の著作にはずいぶんと影響を受けました。本書もその中で述べられている内容ですが、特に肉食を問題視している部分のみ抜粋しました。業(カルマ)の観点からとらえている点で参考になると思います。

平和論と殺生食について

 牛を屠殺場へ曳いて行くときには、何となくそれを感じて牛も涙をこぼすということを私はきいたことがあります。
 仏教は因果を説き、殺生を十不善の第一戒においているのであります。そして原因あれば結果は循環してくることを説くのが仏教であります。殺す者は殺されるのであります。人類が動物食を続行し、殺生という悪徳の上に人類だけが繁栄しようと思って、いくら平和論を説いても、それは自己の殺生欲をくらますごまかしにすぎないのであります。
 平和論をなすもの、本当に平和を欲するならば、肉食という殺生食をやめる事から始めなければならないのであります。

なぜ僧院の修行者は植物食なのか

 古来、修行中の僧侶が性生活を清浄にし、煩悩にわずらわせられないために菜食と穀食とを主として、肉食をして山門に入らしめないようにしたのも、肉食は殺生であるからとの理由にもよるが、自然の体験から、罪を犯すごとき結果を招きやすい性欲の興奮を避けるための自然の知恵であったのであります。
 肉類に含まれている脂肪成分は、血管壁面にコレステロールの沈着をきたし、血管の硬化をきたし、人間の老衰を早めるのであります。それゆえに、中老以上の年齢の人々はなるべく食さない方がよいのであります。しかも肉類は酸性食品であるから血液酸性症を起して、細胞を弱体化するのであります。さらにコレステロールを原料として、性ホルモンは合成せられるのであるから、肉食過多に陥ればそれだけ性欲が昂進しやすく、性犯罪を犯しやすくなるのであります。それゆえに、性的に修行僧が堕落しないために、仏教では肉食及びニラ、二ンニク等のごとき、性腺を刺戟する野菜をも禁じたのであります。
 営々としてよく働き、困難を耐え忍ぶ性格は植物食によって得られるのであります。共産主義革命がロシアや、中共にまず起ったことも、食物の関係が大いにあるとみられるのであります。彼らの国の食物が、いかに動物的脂肪に豊富な食料であるかということを考えてみればわかるのであります。
 僧院の修道者が肉食を排して清浄なる植物食をとることにしているのは、植物性食物は血液を清浄にし、心に平和と静謐とを与え、戦闘の心を鎮め、真理を悟得するに適当な心的状態を与えるからであります。

一切の罪悪の根元は「殺す」ということ

 ある日、青年会の集りで肉食生活についての質問を受けたことがありました。その問の要旨は、我々は日常生活において肉食を平気で行っているけれども、考えてみると、これは「殺すなかれ」の宗教的立場からみると、非常なジレンマを感じます。いったいこの問題を我々はどのように考え、どのように実践したらよいのだろうかというようなことでありました。青年は、谷口清超氏がその頃、教文新書1『新生活に関する12の意見』の中で「生命を大切にしなければならぬ」の項で書いている一節を朗読しました。
 「……少し前には幼女をしめ殺して強姦したヒロポン青年もでてきたし、郵便車を襲撃してアメリカ西部劇のまねをする男達もでてきた。彼らはあまりにもたやすく平気で人を殺しているのである。銀座三越の部長夫人を殺した青年も、大したうらみもなく、まるで虫でもヒネりつぶすように貴重な人命を奪い去っているのである。彼らは果して、あとに残された家族のことや子供のことや良人や妻の悲しみを思わないのであろうか。――たしかに、彼らはそんなことは思わないにちがいないのである。彼らはそのような事を思う前に自己の快楽と生存のことで頭が一杯であるらしい。それは牛殺しが牛の悲しい運命を思う前に自己の糊口を思い、牛の肉を喰う人間が、ただうまいうまいと舌鼓をうつだけで、殺される牛のうめき声や、悲痛な思いに関しては無頓着である悲しむべき精神の進化発展した『歴史的必然性』であるからである。この二つの心の間に一条の連絡を見出すまいとがんばるのは、それはやはり人間の我欲であるという他はあるまい。
人類はあまりにも懺悔がなさすぎるのである。人類は過去幾世紀にもわたって、あまりにも多くの殺さずともすむ生命を犠牲に供しつづけて来たのである。……牛や鶏の生命くらいどうでもいいではないかと反撥を感じている人もいるにちがいないのであるが、彼らもまた知らざるなりである。人類は大きな業の波によって動かされている、殺す者は殺され、奪う者は奪われ、与える者は与えられ、人を喜ばす者は喜ばされ、愛する者は愛されるのである……」
 こう書いている一節を朗読した青年は、いったいその「懺悔がなさすぎる」とあるが、その「懺悔をする」というのはどうしたらよいかというような点についても質問せられたのでありました。
 青年達は、こもごも自分の意見をのべたが、原宿青年会に属するという一人の若い女性は、「そんなに動物を殺すことを残虐だと思うのは、人間自身のセンチメンタリズムを動物自身に移入しているのであって、動物自身は別に殺されることを何とも思っていない」とハッキリ割り切った意見をのべて一座の注目をあびたのでありました。
 しかし、大体この「殺す」ということは、あまりよくないことであるということは、およそ全ての人類が肯定していることであるのであります。釈尊の説かれた十善の徳というのも不殺生ということから始まっているし、モーセの十戒も「殺す勿れ」ということから始まっている。観方によれば、全ての悪徳はことごとくこの「殺す」ということの変形であるということもできるのであります。
 他国の領土を侵すことが罪悪であるというのも、他国の人の生命の発展の領域を幾分か殺すから悪いのであります。全面的に殺すのでなくとも「盗む勿れ」というのもやっぱりある意味からいうと相手の有する利用価値を「殺す」のであるから「殺生」の一部分の変形であるとも言えます。あるいは「姦淫する勿れ」というのでもやっぱりこれは「殺す」ことになります。自分の「生命」が本当に正しく生きると生命を生かしたことになるのだが、その反対をするからそれを殺しているということになるのです。結局、一切の罪悪は、この「殺す」ということの変化であります。だから「殺生」は、あらゆる悪徳の根元になっている根本犯罪とでもいうべきものであります。したがって、誰でも「殺す」ということは善くないということは自明の真理として承認しているのであります。「平和運動」ということが大いに叫ばれて「戦争反対」「再軍備反対」と囂々と叫ばれているのも、結局は、殺してはならないという「自明の公理」ともいうべき、人類全体が、それには反対できない公理というようなものが含まれているからであります。しかし、そうして戦争反対、軍備反対ということが当然のごとく、いくら叫ばれても、実際はソ連もアメリカも軍備拡張をやっている。それは何故であろうか。我々の世界は、清超氏の文章にもあったように、大いなる業の波によって動かされている。換言すれば、この世界は動・反動の法則によって支配されている世界であって、この法則はあらゆる所に行われて常に行為が循環する。与えれば与えられる。殺せば殺されるということになっているのであります。

因果の法則は撥無できない

 この動・反動の法則は厳然として常に因果の世界を支配しているから、我々が生物を殺すことを何とも思わないというような気持で、生物を殺して食べるということを実行すると、それは、その食べた時は、生物を殺して食べて自分だけが腹がふくれて大いにエネルギーができて、そして何か大いに仕事ができる力を得たようだけれども、それは結局、「動・反動の法則」によって、他を殺して食べた者は、また自分の生命が殺されるということになる。「殺される」といっても必ずしも市井の殺人事件のように血みどろになって殺されるというだけの意味ではないけれども、さっき言ったような意味で、もっと広範な意味における「殺される状態」というものがそこにあらわれてくるのであります。
 自分が「生命」を発展せしめるために、他の下級の生物を殺した食べて、一時は、自分の生命が大いに発展したように思っておっても、必ずそれには、マイナスの報復が循環して、その報復がある姿をなしてあらわれてくるということになる。これを因縁因果の法則ともいい、業の法則とも、原因結果の法則とも、心の法則ともいうのであります。

心で是認した業は一層ハッキリ循環する

 もっとも、この心の法則というものは、知らずして殺人したとか、過って人を殺したというような、意において殺人を意図しない場合には、あまり因縁因果の法則によって「報復」というものがめぐってこないのであります。これはケイシーの宿命通による前世と今世との関係をみても明かであります。なぜなら、この世界の原因結果の法則を動かしている所のものは心の力であるからであります。心そのものがこの殺人を意識して、それを肯定して「殺してもよい」のであると――そういう肯定的な意志をもって、意識的に、その殺生を是認してやっている場合には、その業の循環というものが一層はっきり現われてくる。これは心によって、そのアクション(行為)が支えられ、循環せしめられるからであります。「殺人」は心によって行われ、形の世界の殺人はその影であるから、殺人を正当化して行うときは、その「殺す」ということを「心の世界」で是認してそれを取消していないのであるから、そのものの考え方が循環してくるということになるのであります。だから、動物を食物として食べるというような場合にも、これは「殺すのは当り前だ」というような是認的な意見をもって食べないで、懺悔の心を起して、「ああすまない」と懺悔しながら食べる時には、業の循環の程度がそれだけ少くなるということが、心の法則の上からいうことができるのであります。この点を清超先生は「懺悔が足らぬ」と言っていられるのだと思う。この話に不満足そうに首をかしげておられる人もあるけれども、それは心の法則だから仕方がない。法則というものは「2×2=4」みたいなもので、私は「2×2=5」だと思うんだと思って首をかしげても、やっぱり「2×2=4」は「2×2=4」である。これはどうも仕方がないのであります。

懺悔はなぜ必要か

 懺悔の心を起して、「これは自分は殺したくないのだけれども、やむを得ない、ああすまない」という心を起す。すまないから、その殺生によって支えられている生命であるから、何とか他のためになるようにこの生命を生かさねばという心を起すのが懺悔であります。この懺悔の心を通して心が浄められ殺生が反転して菩提となってくる。
 自分一人で生活しているのであったら、自分だけは山へでも籠って、そして木の芽でも食って、そして生物動物を殺さないでもかろうじて生きられるであろうけれども、家庭生活をしていると、まだ、人類全体の意識がそれだけ進歩していないから、息子だけが植物食ばかりを食べようと思っても、親や、家族の人たちから「そんなことをしたら身体が衰弱する」とか、「痩せて病気になるじゃないか」とか言われたりする。そしてそれに反抗すると、父母が心配するとか、料理係の周囲の人がいろいろと苦労するとかいうことが起ってくる。「家族全部が一緒に鰯でも食っておればかえって生活費が安くつくのに、特別に精進料理だなんて言うからお前一人だけに特別に料理をしてやるのはとても大変だ」と言われたりする。そうすると、これは、やっぱり周囲の人の愛念を生かさなければならないし、特別に自分のために料理の苦労をかけるのも申しわけがないことにもなる。そこで、肉食することを心のうちで殲悔し。あやまりつつ、まあ全体のために料理をして下さった食物を感謝して食べるということは許されてもよいのであります。
 このような懺悔しつつ食べるという行き方は「殺す」ということを是認する心で食べるのではないのであって、やむを得ずあやまりながら食べるのであるから、肉食を是認する心を否定するのであるから、業が形にあらわれることを否定することになるのであります。自分のやっていることを罪悪だと思わないで、それを肯定するという場合には、その業が「肯定する心」に支えられて強力に形に現われて来るということは、病気が起ったり治ったりする実例によってよくわかるのであります。

口先だけの懺悔では効果はない

 もっとも懺悔さえすれば、業が消えるのだからというので、口先だけで、「すまなかった」といえば、どれだけ肉食しても殺生してもよいと、肉食や殺生を全面的に肯定する心になってしまっては、「すまない」というのはただ、「呪文」であって、実際は心の中で肉食を肯定しているのだから、やはり殺生の業は循環することになるわけであります。しかし、我々がやむを得ず懺悔の心であやまりながら食べるという場合には、「ああ、すまなかった」という心で、「殺生はよくない」と否定の心がはたらくから、殺生の業の循環力が否定されてくるのであります。
 さらに必要なのは、あやまると同時に、まあ魚でも、牛でも、ともかく我々の食物となるために犠牲になって下さったことに対する感謝の念をともなって、食するということにするがよい。これはその牛または魚の霊魂が冥福を得るということになる。さらに、その犠牲を通して生かされている自分の生命であるから、人類のために必ず貢献しましようと、その貢献に我々がいそしむことになると、その人が牛や魚を食べたことが、かえって他の人に食べさせるよりもその人が食べて、間接にその牛、または魚の霊魂が善業をつんでいることになり、さらにその霊魂たちの冥福に寄与することになるのであります。結局、その牛とか魚とかが誰かに食われる運命であるならば、そういう人に食われて、人類のためになり、感謝の善念を送られて、魂の供養を受けるということになるならば、その方がかえって牛や魚の霊魂も救われるということにもなるわけであります。
 
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