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馬子の正直

竹内 均
 
東京大学名誉教授
  
 初め伊予国(愛媛県)の加藤家に仕えた中江藤樹(1608-48)は、22歳のときに、ただ一人残った母を慰めるために、故郷の近江(滋賀県)へ帰り、一生そこにとどまった。母に孝養をつくし、28歳のときに学塾を開いて村人に講義し、それ以外は黙々たる無名の生涯を送った。しかし、彼は、今にいたるもなお「近江聖人」とあがめられている。彼のなしたところが何であったかを知るには、ただ次のエピソードだけを語ればよい。
 岡山藩主池田光政に仕える熊沢蕃山(1619-91)なる若者がいた。主君の命を受け、賢人あるいは聖人を求めて、彼は都(京都)へ向かい、その途中で近江国のいなかの旅館にとまった。ふすまを隔てた隣りの部屋で、今知り合いになったばかりの二人の旅人が話し合っていた。その一人は武士であった。隣室からの会話が、蕃山の耳に聞こえてきた。
 武士はこう語っていた。主君から数百両の金を預けられた武士は、その金をいつも肌身につけて持っていた。しかし、この村へきて馬に乗ったときに、彼はその金を馬の鞍に結びつけた。旅館に着いたとき、うっかりして彼は鞍につけたその金入れを忘れ、馬を馬子とともに帰してしまった。
 やがて、気づいた彼はびっくりした。馬子の名も知らない彼は、金を探し出すことができない。
 主君に申し開きするには、ただ腹を切るしかなかった。遺書をしたため終わった真夜中に、旅館の戸口を激しくたたく物音がした。
 「人夫のなりをした男が会いたいと言っています」という旅館の人の声とともに現われたのは、なんと昼の馬子であった。
 彼は金入れを武士の前に置いた。お礼として4分の1の金を受け取ってくれという武士の願いを、馬子はきかなかった。彼は四里の道を歩いてきたわらじ代として四文の金を求めただけである。
 念のために言えば、1里は4キロ、1両は四分でまた四千文である。けんかするようにして、武士は馬子にやっと二百文の金を受け取ってもらった。これとても20分の1両にすぎない金である。武士は馬子に聞いた。
 「こういう正直な人がこの世にあろうとは、自分は思ってもみなかった」
 それに答えて馬子は言った。
 「小川村においでになる中江藤樹という方が、常に正直であるようにと私たちに教えてくださっているのです。私たちはその方の言われることに従っているだけです」
 蕃山は膝を打って言った。
 「私の探し求めている聖人がここにいる。明朝彼のところへ行って、弟子にしていただこう」と。
 三日三晩藤樹の家の軒端にとどまった後で、藤樹の母のとりなしによってようやく、蕃山は藤樹の弟子となることができた。
 
修身のすすめ』 (竹内均・著/講談社文庫) より