お 魚 

  海の魚はかわいそう。

  お米は人につくられる、
  牛は牧場で飼われてる、
  鯉もお池で麩を貰う。

  けれども海のお魚は
  なんにも世話にならないし
  いたずら一つしないのに
  こうして私に食べられる。

  ほんとに魚はかわいそう。
 
 
 『みすゞコスモス…わが内なる宇宙』
矢崎 節夫・著  JURA出版局
【著者解説】
 『お魚』という作品を紹介する時、「ある幼稚園では、先生が毎日一編ずつ、みすゞさんの作品を読んでくださっています。園児たちが大好きなのが『お魚』で、先日も読んだら一人の子が『だからぼく、お魚、食べないんだよ』と言ったそうです」と話をしますと、聞いている大人はみんな笑います。私も笑って話していたような気がします。
 続いて「でも、ほかの子がすぐに『ちがうよね、先生。だから一生懸命食べるんだよね』といったそうです」と話すと、みんな、ほっとしたように、うなずきます。私自身も、この子のほうがすてきだと思っていました。
 でも、今は、それがとても恥ずかしいです。「だからぼく、お魚、たべないんだよ」と、『お魚』を読んでもらった時にいった子は、一番すばらしい子だったのです。
 本当は「だから一生懸命食べるんだよね」といった子も、最初は同じことばをいって、お母さんから“いのちはいのちが支えてくれている”という大切なことを教わり、あのすてきな発言になったのでしょう。
 しかし、恥ずかしいことに、笑った私たち大人は、“いのちをたべている”ということをぽんと抜かして、食べ方から出発していたのではないでしょうか。
 これでは、“いのちのいたみ”に気づきません。
 私たちをおつくりになった宇宙、あるいはだれか尊いお方は、いのちを守るためには、ほかの弱いいのちを食べなければならないという、根源的な悲しみを私たちに与えました。
 きっと、もうこれ以上の悲しみをつくらないように生きなさい、ということだったのでしょう。
 このことを忘れてしまったから、人と人が傷つけあうという行為ができてしまうのでしょう。それも、最高の理性と知性を持った人間だけが、互いに傷つけあっているのです。
 いのちを守るためには、ほかのいのちを食べなければならない――このことは私たちが背負っている一番の悲しみです。ならば、一番の倖せは、その反対でしょう。
 たくさんのいのちによって、“今日を生かさせてもらっている”ということが、一番の倖せです。今まで私はたくさんのいのちを食べることで、生かさせてもらってきました。これからもそうです。私のいのちにかわってくれた、たくさんのいのちのためにも、かわってよかったなと思ってくれるような生き方をしたいと、今、強く思っています。
 生きているのではなくて、“生かされているいのち”を、私のいのちに、生かさせていただきます、ということだったのですね。
 みすゞさんの『お魚』は、「いただきます」ということばと同じ世界です。
 
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