見えない星 

  空のおくには何がある。

  空のおくには星がある。
 
  星のおくには何がある。

  星のおくにも星がある。
  眼には見えない星がある。

  みえない星はなんの星。

  お供の多い王様の、
  ひとりの好きなたましいと、
  みんなに見られた踊り子の、
  かくれていたいたましいと。
 
 
 『みすゞコスモス…わが内なる宇宙』
矢崎 節夫・著  JURA出版局
【著者解説】
 机の前の窓から見える空を、同じ時間に、一年間、写真に写していたことがあります。ですから、カメラはいつも手の届くところに置いてありました。
 その日も仕事をしていて、ふと目を上げたとたん、目と目とがあったのです。
 「何?」と一瞬思いました。
 野鳩だったのです。「さっきから、ずっと見てたのに、気づかなかったの?」とでもいうようにです。本当は、野鳩はちがう方向を見ていたのですが、私には目と目があったと思えたのでした。
 こんな目の前にいる野鳩にさえ気づかなかったのですから、「みえない星」を読むと、思わずため息がでてしまいます。
 〔星のおくにも星がある。/眼には見えない星がある。//みえない星はなんの星。//お供の多い王様の、/ひとりの好きなたましいと、/みんなに見られた踊り子の、/かくれていたいたましいと。〕
 本当に、そうなのですね。王様だって、一人になりたい時があるのに、お供がたくさんいていいなと、勝手に思っていたのです。踊り子だって、かくれていたと思う時があるのに、みんなに見られていいなと、勝手に思っていたのです。
 金子みすゞさんって、なんと深いところで、一人の人を見、考えることができたのでしょうか。
 “誰もが一色ではない”のですね。
 私の中にも、いろんな私がいます。愚かな自分、高慢な自分、怒りっぽい自分から、いい人もどきの自分まで、実に多様です。
 おかげで、なまいきな奴だとか、いやな奴だとか、ほんの時々は、いい人ねなんてもいわれます。この場合はたいてい、どうでもいい人の意味なのですが。しかし、どれも正解なのです。どれも私の部分を表現しているのですから。
 でも――と、ここでやっぱりいいたくなります。正解であっても、一部分であって、私全体ではないのですと。どんなに宇宙はフラクタル(部分は全体を反映している)につくられているといわれても、自分自身の部分は、全体を反映しているとは思いたくないのです。
 それでいながら、人のことは勝手に色分けしてしまうのですから、本当に自己中心です。
 だからこそ、私が最初にみすゞさんに出合ったのでしょう。私自身のまなざしが変わらないと、家族や大切な人たちがどんなにいやな思いをするかわからなかったからです。
 それだけではありません。「よく16年もみすゞ捜しを続けられましたね」といってくださる方がいますが、私は16年かかっただけなのです。
 それまでに、長い間、みすゞ捜しをし続けてくださった方々がいたから、私は16年ですんだのです。
 見える私の16年より、見えないその前の方々の時間があって、今、みすゞさんは甦ったのです。その方々のことを、いつも忘れないでいたいと思います。
 “すべてには時が必要”なのですから。
 
[TOP]