第19章 死とその過程について

 わたしの人生はフロイトやユングも呆れ返るような曲芸の連続だった。シカゴのダウンタウンの交通ラッシュを車で駆けまわり、家政婦をみつけ、マニーとすったもんだのあげく自分の銀行口座をもつことを認めさせ、食料を買いこみ、講義の準備をし、他の診療科目のための精神科リエゾンとしての仕事をしていた。ときどき、もうこれ以上の責任は負えそうにないと感じることもあった。
 ところが、一九六五年の秋のある日、研究室のドアをノックする人がいた。シカゴの神学校からきた四人の男子学生だった。四人は自己紹介を終えると、人間が対処すべき究極の危機としての死をテーマにした論文を探しているといった。わたしがデンバーではじめておこなった講義の記録はすでにどこからか入手していたが、わたしが論文も書いているという噂をたよりに、その論文がみたいといってきたのである。
 そんな論文は書いていないという返事に失望している四人を招き入れて、話を聞いた。神学生が死というテーマに関心をもつのは自然なことだと思われた。かれらには医師以上に死や臨終に関心をもつ理由があった。かれらもまたいずれは死の床にある患者と接する立場にあったのだ。聖書を読んだだけでは答えがでない、死とその過程にかんする独自の疑問があって当然だった。
 話しているうちに、神学生たちが死にかんする疑問に答えられずに混乱し、無力感におちいっているということがわかった。瀕死の患者と話したことも、死体をみたこともない学生ばかりだった。そのような経験ができる場がないかとたずねられた。わたしが瀕死の患者と話しているところを見学したいとさえいいだした。死とその過程にかんするわたしの研究にこれほど熱心に関心をもっている人たちがいることをはじめて知らされた。
 翌週いっぱいをかけて、わたしは自分の精神科リエゾンとしての仕事について考えた。腫瘍学、内科学、婦人科学などの専門医たちと患者との関係を円滑にさせるためには多少なりとも役立っていると自負していた。病院には末期にあって苦しんでいる患者がいるかと思えば、放射線療法や化学療法、ときにはたんなるX線検査を受けるための待ち時間に、ひとりで不安とたたかっている患者がいた。しかし、その全員がおびえ、途方に暮れ、孤独にさいなまれ、胸のうちを分かちあってくれるだれかを死に物狂いでもとめていた。わたしはごく自然にその「だれか」の役割をはたしていた。ひとつの質問をするだけで、患者は堰を切ったように胸のうちを語りはじめた。
 そこで、死に瀕した患者で、神学生と話をしてもよいという人をもとめて自分の病棟を巡回した。何人かの医師に危篤の患者がいないかどうかをたずねたが、嫌悪の反応しか返ってこなかった。末期患者の大半をかかえる病棟の医長は、わたしに患者と話をする許可さえあたえてくれなかった。それどころか、「きみは患者を食い物にしている」と叱責された。自分の患者が臨終にあることを認めようとすらしない医師だちにたいして、わたしの申し出はラジカルにすぎるようだった。もっと巧妙に、戦略的に提案をしていく必要があった。
 ようやく、ひとりの医師が自分の病棟の年配の患者を紹介してくれた。その老人は肺気腫で死をむかえようとしていた。その医師はこんないいかたをした。「あれを試してみればいい。あのじいさんならいま以上に悪化させる心配はない」わたしはその足で老人の病室に入っていき、ベッドに近づいた。呼吸を確保するチューブにつながれた老人は衰弱しきっていた。だが、すばらしい患者だった。あした四人の神学生をつれてきて、いまの心境について質問させていただきたいのですが、とたずねた。わたしの意向は伝わったようだった。しかし、老人は「いますぐつれてこい」と主張した。「いまは無理だわ」わたしはいった。「あした、つれてきますから」
 わたしの失敗は老人の意見を無視したことにあった。老人は時間がないことを伝えようとしていた。わたしは聞く耳をもたなかった。
 翌日、四人の神学生をつれて病室をおとずれたが、老人は衰弱がすすみ、ほとんどしゃべる力がなくなっていた。それでもわたしがきたことに気づき、手をさしのべて歓迎の意をあらわした。老人の頬に涙が流れた。かすれた声で「お気持ち、ありがとう」といった。しばらく病床に腰かけてから、学生たちをうながして研究室にひきあげた。研究室に入ったとたんに電話があり、老人が息をひきとったことを知らされた。
 患者の都合より自分の都合を優先させたことがあまりにも情けなかった。きのうはあれほど熱心に胸のうちを分かちあいたがっていたのに、それもできないまま、孤独のうちに死なせてしまった。その後、神学生と話をすることに同意してくれる、もうひとりの患者がみつかった。しかし、最初の教訓はあまりにも強烈で、いまだに忘れることができないでいる。
 死を理解しようとする人のまえに立ちはだかるいちばん大きな障壁は、おそらく、意識が失われたら自分のいのちの最期は想像することもできなくなるということだろう。だから、唐突におとずれる恐ろしい生の中断、悲劇的な殺戮、憎むべき病気の犠牲としてしか死を考えられなくなるのだ。いわば、耐えがたい苦痛としての死である。ところが、医師にとっての死は意味が異なる。医師にとって死は失敗であり、敗北だった。わたしは病院のだれもがいかに慎重に死の話題を避けようとしているかに気づかないわけにはいかなかった。
 この近代的な病院では、死は孤独で、寂寞とした、非情なできごとだった。末期の患者はきまって片隅の部屋に移された。救急治療室の患者は完全に隔離され、別室では家族と医師が本人に告知すべきか否かを議論していた。わたしにいわせれば、問われるべき問題はただひとつ、「どんなことばで伝えるか」だけだというのにである。死にゆく患者にとってどんな状況が理想的かと聞かれたら、わたしは子ども時代に経験した近所の果樹園主の死について語るだろう。その人は自宅で、家族や友人に囲まれながら、おだやかに死んでいった。ありのままがいちばんいいのだ。
 医学の輝かしい進歩によって、人びとは苦痛なしの人生、ペイン・フリーの人生が当然だと考えるようになった。だから、唯一苦痛がともなう機会である死をことさらに忌避するのだ。おとなはめったに死について語ろうとしない。語る必要のあるときは子どもたちを別室に追いやる。しかし、事実は事実なのだ。死は生の一部である。生のいちばん重要な一部である。延命の技術にすぐれた手腕を発揮する医師たちも、死が生の一部であることを理解していなかった。最後の最後まで質のいい生をたもつことができなければ、質のいい死を迎えることなどできはしないのだ。
 そうした問題を学問的、科学的レベルで研究することの必要性は大きいが、それはとりもなおさず、研究者の両肩にのしかかる責任も大きいということを意味している。わが師、マーゴリン教授の講義と同じく、統合失調症をはじめとする精神疾患にかんするわたしの講義も、医学校では非正統的かつ人気のあるものになった。四人の神学生といっしょにはじめた実験も、噂がひろまり、勇敢で好奇心の強い学生たちが集まるようになった。クリスマスの直前、神学校と医学校の六人の学生から、また瀕死の患者との面接を設定してくれと依頼された。
 了解したわたしはその準備に入り、一九六七年前半から、毎週金曜日に「死とその過程」セミナーを開催しはじめた。セミナーには病院の医師や大学の教職員はひとりも参加しなかった。それはかれらの死にたいする忌避感のあらわれだった。しかし、医学生と神学生、ナース、牧師、ラビ、ソーシャルワーカーなど、驚くほど多くの参加者が集まってきた。教室の席が足りなくなり、会場を大きな部屋に移さなければならなかった。瀕死の患者との面接はマジックミラーとオーディオ装置が設備された隣接する小部屋でおこない、みかけだけでもプライバシーがたもてるようにした。
 毎週月曜日になると、わたしはひとりの患者を探しはじめた。楽な仕事ではなかった。ほとんどの医師がわたしを白眼視し、「患者を食い物にする」セミナーの主催者だとみなしていたからだ。人あつかいの上手な医師は自分の患者が被験者に向かない理由をとうとうとのべたてたが、大半の医師はわたしが末期患者と話をすることも拒絶した。ある日の午後、研究室で牧師やナースのグループと話をしていたときに電話が鳴った。受話器の向こうでどなる医師の声が部屋にもれていた。「K夫人と死について話すとは、なんという神経をしてるんだ。患者は病状についてなにも知らないし、もういちど退院できると思っているんだぞ!」
 そういうことなのだ。わたしのセミナーを忌避している医師の患者たちは不幸にして、たいがい自分の病気に対処することさえできない状態のままだった。医師自身が自分の死に直面しようとしていない以上、患者に胸のうちを語るチャンスがあるはずもなかった。
 わたしの目標は、患者の内奥の表現を禁じている、医療従事者の職業的な忌避感という壁を打ち破ることにあった。面接にふさわしい患者がなかなかみつからず、病院のなかを歩きまわっていたときのことだ。どの医師からも、自分の病棟には瀕死の患者などいないといわれていた。廊下で、ふと老紳士に目がとまった。紳士は「老兵は死なず」という見出しの新聞記事を読んでいた。外観から判断して、紳士の病状はかなり進行しているように思われた。そんな記事を読んでもだいじょうぶですか、とたずねてみた。紳士はわたしに侮蔑の視線を返してきた。現実に対処することを避ける、ふつうの医師のひとりだとみられたのだ。その後、紳士はすばらしい被験者になり、やがて亡くなった。
 ふり返ってみると、わたしが受けた数々の抵抗の原因には、女であるということも関係していると思われる。四度の流産を経験し、ふたりの子どもを生み育てた女であるわたしは、いのちの自然なサイクルの一部としての死をありのままに受容していた。わたしにはほかに選択の余地がなかった。それは避けられないことだった。子どもを生むということの危険は、生きることを受容するという危険と変わるものではなかった。だが、医師の大半は男であり、ごく少数の例外を除けば、死を失敗または敗北だと考えていた。
 こんにちサナトロジー(死生学)として知られている分野の揺籃期にあった当時、わたしの最高の師はひとりの黒人清掃作業員だった。名前も知らなかったが、夜も昼も、病院の廊下でその女の姿をみかけていた。わたしの注意を惹いたのは、重体の患者におよぼすその女の影響力だった。死の床にある患者の部屋から女がでていったあと、きまって患者の表情があきらかに変化していることに、わたしは気づいていたのである。
 秘密が知りたかった。どうしても知りたくて、ハイスクールもでていないが大きな秘密をにぎっている女を追いかけ、文字どおりスパイもどきの尾行をした。
 あるとき、廊下でその女とすれちがった。とつぜん、いつも学生たちに教えている「聞きたいことがあったら、その場で聞け」という格言を実行する気になった。勇気をふるい起こしてその女に近づいた。まなじりを決して近づいてくる医師に女が怖じ気づくことにも気づかず、わたしはだしぬけに「あなたは患者になにをしているの」とたずねた。
 当然のことながら、女は身がまえた。「床のお掃除をしているだけです」礼儀正しくそう答えると、女は去っていった。
「そんなことを聞いているんじゃないの」といったが、遅すぎた。
 それから二週間、わたしたちはたがいに疑惑のまなざしで監視しあっていた。まるでゲームのようだった。ある日の午後、また廊下ですれちがった。女はわたしをナースステーションの裏の小部屋につれていった。白衣を着た白人の精神科助教授がつつましい黒人の清掃係に袖をひかれていく図はちょっとした光景だった。あたりに人影がないことをたしかめると、女は身の上ばなしをはじめた。その悲惨な人生と女のたましいのゆくえは、わたしの想像をこえるものだった。
 シカゴのサウスサイドのスラムに生まれた女は貧困と悲惨のなかで育った。アパートには電気もガスも水道もなく、子どもたちは栄養失調で病気がちだった。貧しい人たちがたいがいそうであるように、女も病気や飢えをふせぐ手段をもたなかった。子どもたちは粗悪なオートミールで飢えをしのぎ、医者にかかることは特別な贅沢だった。あるとき、女の三歳になる息子が肺炎で重体になった。地元の病院につれていったが、10ドルの借りがあったために診てもらえなかった。女はあきらめずにクック郡立病院まで歩いていった。そこなら貧窮者でも診てもらえるはずだった。
 不幸なことに、待合室は女と同じような深刻な問題をかかえた人たちであふれ返っていた。待つように指示された。三時間、じっと待ちながら、女は小さな息子が喘鳴(ぜんめい)し、あえぐのをみていた。息子は女があやす腕のなかで息絶えた。
 嘆くなといってもとうてい不可能なその経験を淡々と語る女の態度にわたしは胸を打たれた。深い悲しみをうちに秘めながらも、女は否定的なことばを吐かず、人を責めず、皮肉も怒りもあらわさなかった。その態度があまりにも人並みはずれていたので、まだ未熟だったわたしは思わず「なぜそんな話をするの? それと瀕死の患者とが、どんな関係があるというの?」と口走りそうになった。女はやさしく思いやりのある黒い瞳でじっとわたしをみつめ、まるでわたしのこころを読んだかのようにこう答えた。「いいですか、死はわたしにとって、なじみ深いものなんです。古い古いつきあいですからね」
 わたしは師をみあげる生徒になっていた。「わたしはもう死ぬことが怖くありません」女は静かだがはっきりとした口調でつづけた。「死にそうな患者さんの部屋に入っていくと、患者さんが石のように硬くなっていることがあります。しゃべる相手がだれもいないんです。だから、そばにいくんです。ときには手をにぎって、心配することはない、死はそんなに怖いものじゃないって、いってあげるんです」そういうと、女は口を閉ざした。
 それからまもなく、わたしはその清掃作業員を自分の第一助手として採用した。その助手は、ほかのだれにもまねができない細やかさで、わたしを助けてくれた。そのことだけでも、学ぶべき教訓になった。名のあるグル(導師)やババ(尊者)などいなくても、人は成長することができる。人生の師は子ども、末期患者、清掃作業員など、あらゆるかたちをとって目のまえにあらわれる。だれかを助けるということにかんするかぎり、世のいかなる学説も科学も、他者にたいしてこころをひらくことを恐れないひとりの人間の力にはかなわないのだ。
 瀕死の患者に近づくことをゆるしてくれた数少ない医師には感謝しなければならない。初回の面接はいつも同じ手順でおこなわれた。胸に「精神科リエゾン」の役職名と氏名のある名札をつけた白衣を着て、わたしは学生たちのまえで患者に話しかけはじめる。まず、病気について、入院について、そのほかなんでも考えていることについて質問してもいいですかとたずねる。患者のほうから口にだすまでは、「死」や「臨終」ということばは使わないようにした。氏名、年齢、診断名などからたずねていった。ほとんどの場合、患者は数分で面接に参加することを同意してくれた。事実、患者に拒否されたことは一度もないと思う。
 セミナー会場は講義がはじまる30分まえには満員になるのがふつうだった。数分まえになると、わたしは自分でストレッチャーか車椅子を押して隣接する面接室に患者をみちびいた。はじめるまえに、患者のそばに近づいて、しばらく静かに呼吸をととのえてから、危害がおよぶ心配はないこと、答える必要があると思った質問にだけ答えればいいことを患者に伝えた。それはアルコホーリックス・アノニマス(アルコール依存者更生会)の祈りのようなものだった。

 神よ、わたしにお授けください、
 変えられないことを受容する度量を。
 変えられることを変える勇気を。
 そして、その両者のちがいを知る叡知を。

 患者がひとたび語りはじめると――どんなに小声で話しても患者にとってはじつに大きな負担だったが――、抑制されていた感情のほとばしりをさえぎることはできなかった。患者が無駄ばなしで時間を浪費することはなかった。たいがいの患者は医師からではなく、家族や友人たちの行動の変化から、自分の病気の真相について知ったと語った。どうしても真実が知りたいと思ったときにかぎって、とつぜんのように相手との距離が置かれ、虚偽がまかりとおりはじめた。ほとんどの患者が医師よりはナースのほうがわかりあえ、たよりになると感じていた。「いまこそ、医者たちにその理由をいってやるチャンスだわ」わたしはいった。
 わたしはつねづね瀕死の人たちからいちばん多くのことを学んだといってきたが、かれらの話を聞くには勇気が必要だった。患者は自分にほどこされている医療――医学的な処置だけではなく、慈悲、共感、理解の欠如もふくめて――にたいする不満の表明に仮借がなかった。経験豊かな医師であればあるほど、鈍感、臆病、無能呼ばわりされることに耐えられないようだった。ある女性患者が泣きながらこう叫んでいたのを、いまでも覚えている。「医者の興味はわたしの肝臓の大きさだけなのよ。いまさら肝臓の大きさがどうだっていうの? 家には五人の子どもがいて、みんなわたしの世話を必要としているのよ! そのことが心配なの。でも、子どもの話なんて、だれも聞いてくれないじゃない!」
 面接が終わるころには、患者の表情にやすらぎがみられた。希望を捨て去り、無力感にとらわれていた患者の多くが、新しくあたえられた教師としての役割に大きなよろこびをみいだしていた。死の床にありながらも、まだ目的をもって生きる可能性があること、いまわの際まで立派に生きる理由があることに気づいたのである。その人たちはまだ成長の過程にあった。それは会場を埋めた人たちも同じだった。
 面接が終わると、わたしは患者を病室までつれていき、会場にひき返して、高揚した気分のまま、参加者たちと活発な議論をはじめた。わたしたちは患者の反応の分析に加えて、自分たちの反応の分析もおこなった。驚くほど率直な告白があいつぐ場合が多かった。「亡くなった人をこの目でちゃんとみたという記憶がないんです」死を恐れ、死を遠ざけていたという女医がそういった。ある牧師は「なんといえばいいのか、わかりません」といいはじめた。患者の質問に答えようとしても聖書には限界があるとみとめたその牧師は、「だから、なにもいわないんです」と告白した。
 その議論をとおして、医師、牧師、ソーシャルワーカーたちは内なる敵意や防衛と直面していた。かれらの恐れは分析され、克服された。死にゆく人たちのことばに耳をかたむけることによって、わたしたちはみんな自分が過去にしてきたまちがいや、将来すべきことがなんであるのかを学んだのだ。
 患者を面接室につれてきて、また送り返すたびに、その患者のいのちは「広大な空にまたたき、はてしない夜のなかに消えていく無数の光のひとつ」を思いださせた。ひとりひとりがあたえてくれた教訓は、煎じつめれば同じメッセージを伝えていた。

生きなさい。ふり返っていのちを無駄にしたと後悔しないように。
生きなさい。してきたことを悔やみ、別の生きかたを望むことのないように。
正直で、じゅうぶんな人生を生きなさい。
生きなさい。
 
← [BACK]          [NEXT]→
 [TOP]