第27章 死後のいのち

 わたしは1973年まで、ラ・ラビーダ小児病院で、瀕死の子どもたちの生から死への移行を手助けしていた。同じ時期、精神衛生クリニック「ファミリー・サービス・センター」の雇われ院長もつとめていた。あちこちに手をのばしすぎるという悪評が立っていることは知っていた。しかし、悪評はそれ以上のものであることがわかってきた。ある日、わたしと貧しい女性患者との会話を聞いていたクリニックの経営者から、治療費が払えない患者を診るなと叱責された。息をするなといわれたのも同然だった。
 そこでの診療をやめる気はなかった。わたしを雇った以上、わたしのやりかたをみとめてもらうと主張した。それから2日間、わたしたちは議論をつづけた。患者の支払い能力の有無にかかわらず医師には患者を診る責任があるというわたしの立場と、クリニックといえども経営であるというかれの立場は平行線をたどった。ついに経営者が妥協案をだしてきた。昼の食事時間に慈善診療をすればいいという案である。ただし、時間管理の必要上、わたしがタイムカードを使うという条件がついていた。
 まっぴらごめんだった。クリニックを辞職した。46歳になって、わたしはとつぜん新しいプロジェクトに手を染める時間をもつことになった。「生、死、移行」ワークショップもそのプロジェクトのひとつだった。それは一週間の集中体験学習で、講義、瀕死の患者との面接、Q&Aセッション、わたしが「アンフィニッシュト・ビジネス」(やり残した努め)と呼んでいる、溜めこんだ涙と怒りの克服を援助するためにおこなう一対一の訓練などがおもな内容だった。やり残した努めには、親に死なれても嘆くことができなかった、性的虐待を受けてもそれをみとめることができなかったなど、さまざまなトラウマがふくまれる。しかし、ひとたび安全な場でその苦悩が表現されると治癒のプロセスが始動しはじめ、オープンに、正直に生きられるようになって、その結果、癒しがおとずれるのである。
 やがて、そのワークショップを開催してくれという要請が世界中からとどくようになった。自宅には、毎週1,000通もの手紙が舞いこみはじめた。電話はほとんど鳴りっぱなしの状態だった。わたしの知名度が高まるにつれて家族の被害が大きくなっていったが、家族はよく事情を理解してくれていた。死後の生にかんするわたしの研究はますます勢いがついていた。1970年代の前半だけでも、ムワリムとわたしは約二万人の患者に面接をした。患者の年齢は2歳から99歳まで、文化的にもイヌイット、アメリカ先住民からプロテスタント信者、イスラム教徒まで、多種多様だった。
そのすべての症例の臨死体験には共通性があり、体験の真実性を強く示唆していた。
 それまでのわたしは、死後の世界などまったく信じていなかった。しかし、データが集まるにつれて、それらが偶然の一致でも幻覚でもないことを確信するようになった。自動車事故で医学的に死亡が確認されたある女性は、生還するまえに「主人に会ってきた」と証言した。その女性はのちに医師から、事故の直前に、夫が別の場所で自動車事故を起こして亡くなっていたことを知らされた。30代のある男性は、自動車事故で妻子を失い、失意のあまり自殺したときのことを証言していた。やはり死亡が確認され。たが、その男性は家族に再会し、みんな元気そうであることを知って、生還してきた。
 死の体験にはまったく苦痛がともなわないこと、二度とこちら側に帰ってきたいとは思わなかったことも、すべての症例に共通する体験だった。かつて愛した人、愛された人たちと再会し、あるいはガイド役の存在と出あったあと、かれらは世にもすばらしい場所に到達して、もうもとの世界にはもどりたくないと感じる。ところが、そこでだれかの声を聞くことになる。「まだその時期ではない」という意味の声を、事実上、すべての人が聞いていたのである。5歳の男の子が母親に死の体験のすばらしさを説明しようとして絵を描いている場面は、いまでもよく覚えている。男の子は光り輝くお城を描いて、「ここに神さまがいるんだよ」といった。それから、あかるい星を描き足した。「ぼくがこのお星さまをみると、お星さまが『もうおかえり』っていったんだ」
 こうした驚くべき発見の数々からみちびきだされたのは、さらに驚くべき科学的結論、すなわち、従来のような意味での死は存在しないという結論だった。どんな定義になるにせよ、死の新しい定義は肉体の死を超越したところまで踏みこまなければならないと、わたしは感じていた。それは、肉体以外のたましいや霊魂といったもの、いのちにたいする高度な理解、詩に描かれたもの、たんなる存在や生存以上のなにか、死後も連続するなにかを吟味しなければならないということでもあった。
 死の床にある患者は五つの段階を経過していく。そして、そのあと、「地球に生まれてきて、あたえられた宿題をぜんぶすませたら、もう、からだをぬぎ捨ててもいいのよ。からだはそこから蝶が飛び立つさなぎみたいに、たましいをつつんでいる殻なの」というプロセスをへて……それから、人生最大の経験をすることになる。死因が交通事故であろうとがんであろうと、その経験は変わらない(ただし、飛行機の衝突事故のような、あまりに唐突な死の場合は、自分の死にすぐには気づかないこともある)。死の経験には苦痛も、恐れも、不安も、悲しみもない。あるのはただ、蝶へと変容していくときのあたたかさと静けさだけなのだ。
 面接のデータを分析して、わたしは死亡宣告後の経験をいくつかの特徴的な段階にまとめた。

第一期:まず最初に、肉体からぬけだして空中に浮かびあがる。手術室における生命徴候の停止、自動車事故、自殺など、死因のいかんにかかわらず、全員が明瞭な意識をもち、自分が体外離脱をしている事実にはっきりと気づいている。さなぎから飛び立つ蝶のように、肉体からふわっとぬけだすのだ。そして、自分がエーテル状の霊妙なからだをまとっていることに気づく。なにが起こったのかは明晰に理解している。その場にいる人たちの会話が聞こえる。蘇生を試みる医師チームの人数を数えることも、つぶれた車から自分の肉体を救出しようとしている人たちの姿をみることもできる。ある男性は自分を轢き殺して逃げた車のプレートナンバーを覚えていた。自分の死の瞬間にベッドサイドで親族がいったことばを覚えている人はたくさんいる。
 第一期で経験するもうひとつの特徴は「完全性」である。たとえば、全盲の人も目がみえるようになっている。全身が麻痺していた人も軽々と動けるようになり、よろこびを感じる。病室の上空で踊りはじめ、それがあまりにたのしかったので、生還してからひどい抑うつ状態になった女性もいる。実際、わたしが面接した人たちが感じていた唯一の不満は、死んだままの状態にとどまれなかったということだった。

第二期:肉体を置き去りにして、別の次元に入る段階である。体験者は、霊とかエネルギーとかしかいいようのない世界、つまり死後の世界にいたと報告している。ひとりで孤独に死んでいくことはないのだと知って、安心する段階でもある。どんな場所で、どんな死にかたをしようと、思考の速度でどこにでも移動することができる。自分が死んで、家族がどんなに悲しむだろうかと思ったとたんに、一瞬にして家族に会うことができたと報告する人は数多くいる。たとえ地球の反対側で死んでも、その事情は変わらない。救急車のなかで死亡した人が友人のことを思いだしたとたんに、仕事場にいるその友人のそばにきていたと報告する人もいる。
 この段階は、愛した人の死、とりわけ、とつぜんの悲劇的な死を嘆き悲しんでいる人にとっては大きななぐさめになる時期でもあるということがわかった。がんなどでしだいに衰弱して死をむかえる場合は、患者も家族も死という結末にそなえるだけの時間がある。しかし、飛行機の衝突事故はそうはいかない。飛行機事故で死んだ本人も、最初は残された家族に劣らず混乱している。ところが、この段階に入ると、死んだ人自身にもなにが起こったのかを解明するだけの時間がもてるようになる。たとえば、TWA800便の事故で亡くなった人たちは、海岸でおこなわれた葬儀に家族といっしょに参加していただろうと、わたしは想像している。
 面接をした全員が、この段階で守護天使、ガイド――子どもたちの表現では遊び友だち――などに出あったことを覚えている。報告を総合すると、天使もガイドも遊び友だちも同一の存在であり、つつむような愛でなぐさめてくれ、先立った両親、祖父母、親戚、友人などの姿をみせてくれる。その場面は生還者たちに、よろこばしい再会、体験の共有、積もる話の交換、抱擁などとして記憶されている。

第三期:守護天使にみちびかれて、つぎの第三期に入っていく。そのはじまりはトンネルや門の通過で表現されるのがふつうだが、人によってそのイメージはさまざまである。橋、山の小道、きれいな川など、基本的にはその人にとっていちばん気持ちのいいイメージがあらわれる。サイキックなエネルギーによって、その人自身がつくりだすイメージである。共通するのは、最後にまぶしい光を目撃することだ。
 ガイドのみちびきで近づいていくと、その強烈な光となって放射されているものが、じつは、ぬくもり、エネルギー、精神、愛であることがしだいにわかってくる。そして、ついに了解する。これが愛なのだ。無条件の愛なのだ。その愛の力は途方もなく強く、圧倒的だったと、生還者たちは報告している。興奮がおさまり、やすらぎと静けさがおとずれる。そして、ついに故郷に帰っていくのだという期待が高まってくる。生還者たちの報告によれば、その光こそが宇宙のエネルギーの、究極の本源である。それを神と呼んだ人もいる。キリストまたはブッダと呼んだ人もいる。だが、全員が一致したのは、それが圧倒的な愛につつまれているということである。あらゆる愛のなかでもっとも純粋な愛、無条件の愛である。何千、何万という人からこの同じ旅の報告を聞くことになったわたしは、だれひとりとして肉体に帰りたいと望まなかったことの理由がよく理解できた。
 しかし、肉体にもどった人たちは、異界での体験がその後の人生にも深遠な影響をあたえていると報告している。それは宗教体験とよく似ていた。そこで大いなる知恵を得た人たちもいた。予言者のような警告のメッセージをたずさえて帰還した人たちもいた。まったく新しい洞察を得た人たちもいた。それほど劇的な体験をしていない人も、全員が直感的に同じ真理をかいまみていた。すなわち、その光から、いのちの意味を説明するものはただひとつ、愛であるということを学んだのである。

第四期:生還者が「至上の本源」を面前にしたと報告する段階である。これを神と呼ぶ人たちもいる。過去、現在、未来にわたる、すべての知識がそこにあったとしかいえないと報告した人たちも多い。批判することも裁くこともない、愛の本源である。この段階に到達した人は、それまでまとっていたエーテル状の霊妙なからだを必要としなくなり、霊的エネルギーそのものに変化する。その人が生まれるまえにそうであったような形態としてのエネルギーである。人はそこで全体性、存在の完全性を経験する。
 走馬灯のように「ライフ・リヴュー」(生涯の回顧)をおこなうのはこの段階である。自分の人生のすべてを、そこでふり返ることになる。その人が生前におこなったすべての意思決定、思考、行動の理由が逐一あきらかにされる。自分のとった行動が、まったく知らない人もふくめて、他者にどんな影響をあたえたのかが、手にとるようにわかってくる。ほかにどんな人生を送ることができたのかも示される。あらゆる人のいのちがつながりあい、すべての人の思考や行動が地球上の全生物にさざ波のように影響をおよぼしているさまを、目のまえにみせられる。
 天国か地獄のような場所だ、とわたしは思った。たぶん、その両方なのだろう。
 神が人間にあたえた最高の贈り物は自由意志による自由選択である。しかし、それには責任がともなう。その責任とは、正しい選択、周到な、だれに恥じるところもない最善の選択、世界のためになる選択、人類を向上させるような選択をするということだ。生還者の報告によれば、「おまえはどんな奉仕をしてきたか」と問われるのはこの段階である。これほど厳しい問いはない。生前に最善の選択をしたかどうかという問いに直面することが要求されるのだ。それに直面し、最後にわかるのは、人生から教訓を学んでいようといまいと、最終的には無条件の愛を身につけなければならないということである。
 こうしたデータからわたしがひきだした結論は、いまでも変わっていない。それは、富む人も貧しい人も、アメリカ人もロシア人も、みんな同じ欲求をもち、同じものをもとめ、同じ心配をしているということだ。事実、わたしはこれまでに、最大の欲求が愛ではないという人に出あったことがない。
 真の無条件の愛。
 結婚したふたりのなかに、助けを必要としている人にたいする、ちょっとした親切のなかに、それをみることができる。無条件の愛はみまちがえようがない。こころの底で感じるものならほんものである。それはいのちを織りなすありふれた繊維であり、たましいを燃やす炎であり、精神にエネルギーをあたえるものであり、人生に情熱を供給するものである。それは神と人とのつながりであり、人間同士のつながりである。
 生きている以上、だれもが苦しい目にあう。偉大な人もいれば、無価値にみえる人もいる。だが、いかなる人も、わたしたちがそこからなにかを学ぶべき教訓である。わたしたちは選択をつうじてそれを学ぶ。よく生き、したがって、よく死ぬためには、自分に「どんな奉仕をしているか」と問いかけながら、無条件の愛という目標をもって選択すればそれでじゅうぶんなのだ。
 選択は自由であり、自由は神からあたえられたものだ。神があたえた自由は、成長する自由、愛する自由である。
 いのちには責任がつきまとう。わたしはお金が払えない瀕死の女性の相談を受けるかどうかを選択しなければならなかった。たとえ仕事を失うことになっても、わたしは自分のこころがそうしろと告げるままの選択をした。わたしにはそれでよかった。ほかにも選択の余地はあったのかもしれない。人生は選択肢に満ち満ちている。
 人生は洗濯機のなかでもまれる石のようなものだ。粉砕されてでてくるか磨かれてでてくるか、けっきょくは、それぞれの人が選択している。
 
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