訳者あとがき

 本書はエリザベス・キューブラー・ロス博士による初の自伝であり、博士ご自身、冒頭の部分で「これが絶筆になる」と書いておられるように、恐らくは最後の著作になると思われる“The Weel of life: A Memory of Living and Dying”Scribner,N.Y.,1997の全訳である。
 あまりにも有名な博士の生涯については、すでにジャーナリストのデレク・ギルによる伝記“Quest: The Life of Elisabeth Kubler-Ross”, by Derek Gill, Harper & Row, 1980(邦訳は『「死ぬ瞬間」の誕生』、貴島操子訳、読売新聞社)があるが、この伝記の記述は1969年11月21日で終わっている。博士はそのことについて、同書の添え書きの部分で「この日付は、わたしの人生の第1部が終わり、新しい第2部がはじまったことを示している」と記している。
 1969年末といえば、医学界で孤立無援の状態にあった博士の仕事がマスコミの注目するところとなり、『ライフ』誌の特集号と処女作『死ぬ瞬間』をつうじて一躍、世界の耳目を集めはじめた時期にあたる。本書でいえば、全40章のうちの第23章に相当する時期である。したがって、本書は70余年の博士の人生の「第一部」を、伝記作家の目をとおしてではなく、ご自身の目をとおしてふり返ったうえで、秘密のベールにつつまれていた「第二部」の人生を、はじめて赤裸々に公開したものであるということができる。「秘密のベール」といわれるゆえんは、その間に、博士が離婚や詐欺被害、殺人未遂被害、放火被害といった、もっともプライベートな経験をされ、さらに、幽霊との遭遇、降霊体験、チャネリング、体外離脱体験、見神体験、宇宙意識体験など、もっともデリケートな神秘体験を、これでもかといわんばかりに集中的に体験されているところにある。
 博士はこれまで、その神秘体験をごく断片的にしか語ってこられなかった。ただでさえことばで伝達することの困難な神秘体験を、すでに確固とした社会的地位を築いている医師であり科学者である博士のような人が、しかも一度、二度ならず、長期にわたって連続的に経験された場合、その事実を軽々しく語る決心がつかなかったのは当然のことであろう。しかし、博士の著書の愛読者ならだれしも、博士が口をぬぐい、良識家ぶってその体験を口外せず、墓場までもっていくような人ではないことを知っていた。愛読者たちは、いつか博士がそれらの体験を一挙に公開する時期がくることを、ひそかに待ち望んでいたのである。そして、はたせるかな、本書の第24章以降は、そうした愛読者の期待に応えた、恐らくは期待以上のスリリングな筆致でみごとに応えた、圧巻ともいえる記述となっている。

 死をふくむ喪失体験の心理的五段階説、臨死体験における意識変容の五段階説をはじめ、キューブラー・ロス博士が発見した人間心理の深層にまつわる新事実は数多いが、本書を通読してあらためて胸に迫るのは、博士がその深遠な経験をつうじて体得され、情熱的に説いておられる「偶然はない」「死は存在しない」というメッセージのもつ凄まじい説得力である。このふたつのメッセージは、表層的にみれば、従来から一部の宗教家によって説かれていたものと変わらないようにみえるが、その深層に横溢する、あくなき探究心によるデータの蓄積と献身的な愛の実践による知恵の受贈のもつ説得力は、たんなる口移しの教義の伝授とはあきらかに一線を画するものがあるように思われる(サンタバーバラの著名な建築家を媒介としたチャネリングの「宗教家や神学家ではなく医師か科学者でなければならぬ。男ではなく女でなければならぬ。それも強靭な女でなければならぬ」というメッセージは、その意味で、妙に納得させられるものがある)。
 現代文明は、じつはその根底において「偶然」を究極の根拠とする、あやふやな文明である。まず宇宙の発生自体が「偶然」の産物であるとされている。第一原因が設定できないために、「偶然の量子的ゆらぎ」に端を発する「ビッグバン」から「偶然」にはじまったことにならざるをえないのだ。生命の起源にしても、無機物質が化学進化によって「偶然」に複雑化して有機物質となり、生化学進化によって有機物質から「偶然」に生まれたのが代謝と増殖をおこなう生命だとされている。その生命の進化にしても、自然選択という必然だけでは説明できず、「突然変異」という「偶然」との結合を強調せざるをえないという事情がある。
 物質も生命も「偶然」の産物であるとする思想からでてくるものは、当然のことながら、一種のニヒリズムである。みずからの出自をたずね、本源を探っていこうとしても、最後にぶつかるものが「偶然」でしかなければ、そこに意味や価値をみいだすことがむずかしくなるからだ。キューブラー・ロス博士が生涯を捧げた医学の世界においても、そのニヒリズムは徹底している。からだは物質である分子の集合体であり、死んだら無になるだけであり、脳が不可逆的に損傷すれば生きた臓器をとりだしても罪にはならない。
 しかし「偶然」はじつは、20世紀に特徴的な概念のひとつである。『コンサイスニ○世紀思想事典』(丸山圭三郎他編、三省堂)によると、偶然は「予測、説明、理解をこえていること(とくに注目すべき事象や一致・符合)の生起を形容するために用いられる。行為者が意図しなかった事象に出あうことを形容するのに用いられることもある」。予測、説明、理解ができるようになれば、同じ事象も「偶然」ではなく「必然」になる可能性がつねにあるといってもよさそうだ。
 そう考えると、肝心なことをすべて「偶然」のせいにしようとする現代文明は、じつは現象界の背後に存在する(はずの)つながりの糸をみる目をもたない、未熟で無明の文明であることがわかってくる。「いのちの唯一の目的は成長することにある」というキューブラー・ロス博士が一貫して提唱してきたのは、その無明から脱して成長しようということであった。それも、文明自体の未熟を糾弾するのではなく、個人の目ざめと成長をつうじて文明の成長をうながそうという提案である。個人が目ざめ、成長をとげる過程をさまたげているもの、それが死にたいする恐れである。臨床的にその死をみつめつづけた結果、博士がついに手中におさめたのは「死は存在しない」という、足元をすくわれるような結論だった。肉体の死はもちろん存在する。しかし、蝶がさなぎから羽化するように、役目を終えた肉体からなにかがぬけだし、さらに長い長いいのちの旅をつづける。存在するのは物質としての肉体の死だけであり、いのちの終焉としての死は存在しない。そう気づいたとき、人は大いなる安心の境地にいたり、つぎの段階へと成長をとげる。蝶の羽化のように……。
 本書を訳出中、アメリカを旅行する機会にめぐまれた。できることならスコッツデールまで足をのばし、キューブラー・ロス博士にお目にかかりたいと願ったのだが、博士のエージェントからきた返事は“Kubler-Ross is dying”というショッキングなものであった。三度お願いして、三度拒絶された。電話にもでられない状態だということだった。
 博士がみじんも死を恐れておられないことは、いや、やさしい死の抱擁を待ち望んでおられることはじゅうぶん心得ていたにもかかわらず、かつて博士が「わたしは2003年に死ぬことがきまっている」という、謎めいた発言をされていることを知っていた訳者は、せめてその予言の年まで生きてほしいと祈らないではいられなかった。

 本書はキューブラー・ロスというたぐいまれな女性が20世紀を生きた希有な愛の記録であると同時に、著者がもつさまざまな側面が刻んだ希有なたたかいの記録である。すなわち、財力とテクノロジーさえあれば死を克服できると考え、臓器移植、遺伝子治療、肉体の再生をもくろむ死体や脳の冷凍保存など、ひたすら「神への挑戦」に邁進する「人間の傲慢と愚劣の極み、無知と尊大の極み」とたたかいつづけた闘士の記録であり、侵略戦争、ナチズム、偏見、差別による犠牲者に身を挺して援助の手をさしのべた国際的ボランティアの記録であり、超一流の精神科医(「絶望的」な統合失調症患者の94パーセントを退院にまでもっていく医師は希有である)の臨床記録であり、科学技術と物質文明の時代から霊性の時代への移行期に生きた科学者の観察記録であり、神秘家の修行の記録でもある。たえず脱皮し、変態をくり返して、また成長をつづける著者のエネルギーに感嘆のため息をもらすのは訳者ひとりではあるまい。
 最後になったが、翻訳家冥利につきるようなすばらしい本書の訳者に指名してくださった角川書店の郡司聡さん、終始冷静に翻訳作業を管理してくださった同社の菅原哲也さん、そしてキューブラー・ロス博士と直接会われ、訳出にあたって的確なアドバイスをくださったセラピストの菅原はるみさん、英語の指南をしてくださったC+Fワークショップのティム・マクリーンさんにお礼を申しのべたい。

    1997年9月
              上野圭一
 
 
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