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差し出された手

静岡県磐田市  向井美薫(28歳)
  
  七年ほど前のこと、夕方近くに都心へ向かう電車に乗った。
  車内は空いていたが、途中の駅で酔っぱらいが数人乗り込んで来た。運悪く、その中の一人が私の横に座り、からんできた。
  私は恐怖のあまりその場を立ち去ることもできず、涙をこらえ、固くなっていた。どうしてよいかわからず、時間がとても長く感じられた。
  やがて、しばらくすると向こうから男性が近づいてきた。
  彼は私の前に立つと一言、「武田さんですよね。お久しぶりです」
  私は武田ではなかったし、彼も知り合いではなかった。が、反射的に彼の差し出した手をつかみ、私は自然に立ち上がることができた。
  あのときは動揺してろくにお礼も言えなかったが、彼の行動に心から感動している。今でも忘れられない。
 
『涙が出るほどいい話』(河出書房新社・刊)より