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エスの涙

長野県長野市  越山敏明 51歳
  
  幼稚園児だった頃のことだ。
  クラスに新しく入ってきたその男の子は、しばらくするとなぜか皆からうとまれるようになっていた。乱暴者とかいたずら者というわけでもないのに、なぜか除け者にされていたのを覚えている。
  僕がその子に興味を持ったのは、家が近かったせいと、僕の中にあった生まれつきの好奇心だったろうか。僕は、皆が彼を避けるのに逆らうように、彼に話しかけ、親しくなっていった。
  初めて彼の家に行くと、優しい親切そうな母親と、片耳のちぎれたぶちの雑種の子犬が迎えてくれた。
 「この子は友達がいないからよかったわあ。なかよくしてやってね」。母親は本当に嬉しそうに言って、僕の頭をなでてくれた。
  子犬は母親のこころが判るかのように、僕の足元に頭をすりつけてきた。それまで身近に動物と触れ合ったことのない僕は、初めて触れる犬の感触と、動物と遊ぶ爽快感に魅せられてしまった。
  子犬にはエスという名がついていた。僕とその男の子とエスは、その夏の間中、近所の空き地や草むらや川で遊びまわった。「鬼ごっこ、かくれんぼ、川遊び」。エスの思い切り走る可愛さと、じゃれあう楽しさが毎日の楽しみだった。「あんなのと遊ばない方がいいよ」というかつての遊び仲間の言葉にも耳を貸さずに、僕は彼とエスと過ごしていた。
 「こいつ、捨てられてたんだ。かわいそうで拾ってきたんだよ」。そう言って、彼はエスのちぎれた耳をそっと手で撫でた。エスは彼の手をペロペロ舐めながら、甘えた声で鳴いた。
  しかし、夏休みが終わって半月すぎたころ、彼との別れは突然やってきた。
 「引っ越すんだ。エスは連れてけないし、おれ‥‥」
  彼は、あふれてくる涙を袖口でごしごしこすりながら泣き続けた。
  エスは何も判らず、クンクンと彼の頬に鼻を押し付けていた。
 「おれ、おまえのこと、一生忘れない。おれと遊んでくれたし‥‥おれの友達はエスとおまえだけだったのに、両方ともいなくなるなんて。あーん」
  彼が号泣しだすと、エスは彼の気持ちが判ったかのように、悲しげに「くーん」と鳴いた。

  彼の一家がいなくなって一週間が経ったころ、僕の家で飼われていたエスがふいにいなくなってしまった。
  二日間、近所を探しまわったあげく、途方にくれた僕は、ふと、引っ越して行った彼の、今は無人になっている家を思い出した。その家に行き、庭先から覗いた僕は、あっとおどろいた。犬小屋のあった場所に、エスは何も食べていないらしくひもじそうに庭にうずくまっていたのだった。
  まるで、いなくなった主人が帰ってくるのを待っているかのように、庭から外を見続けていた。僕が抱き上げると、「くーん」と悲しげな声を出し、僕を見上げた。その目には涙が浮かんでいるように見えた。
  それを見ているうちに、エスの悲しみが伝わってきたのか、僕の目からも涙があふれてきた。

  その年の夏は、僕が生まれて初めて、人の差別や動物の無垢の愛情を知った夏になった。エスは、その後の僕の少年時代をいっしょに過ごしてくれた、かけがえのない存在になった。

 
君がいてよかった~犬がくれた40の物語』(NHK出版編・刊)より