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おっちゃん

大分市  鈴木 正一 昭和26年生
  
  昭和37年。私が小学校4年生頃のことである。父が友人の保証をしたのがきっかけで事業に失敗して、少なからぬ借金を抱えた。それで親子6人、古い借家へ引っ越した。それは逃げたのではなく、今までの家も土地も借金のかたに取られたため、住んでいられなくなり、ほかの債権者に理由を言って移って行ったのであった。それでも借金取りはいくらかでも回収しようと毎日のように取り立てに来ていた。
  とうとう父も万策尽き果て、少しでも返済しなければと色々な働き□を探して歩いていたようだが、何しろ借金の断わりやら詫びやら、また少しでも給料の多いところをと選んでいたので就職がおくれ、数カ月間仕事も出来ない状態で朝早くから夜遅くまで走り回っていたように思う。
  その間、母は遠方の親類から米や乾物を送ってもらい、私達4人の子を細々と食べさせていたのである。が、一日中、何も食べられない日も多く、私のすぐ上の兄などは、「おかあちゃん今日もご飯ないねんやろ」と言って、ころんと横に寝そべっていた。
  私は末っ子で、その辺の事情に疎かったのだろうが、「おかあちゃん、おなかすいた、おなかすいた」と言ってかなり母を困らせたようだ。そのたびに母は、「ごめんね、ごめんね」と泣きながら私を抱きしめていたことを思い出す。
  そんなある日の朝、やはり一人の借金取りが来た。初めて見る顔で、父より少し若い感じのする男だったが、家の戸を思い切り開けるなり、「鈴木はおるか鈴木は!!」と大きな声でどなった。母はびっくりして、「すみません、主人は今、仕事を探しに出かけて留守なんですが」と言うと、「ウソをつけ、ほんまは奥におるんとちゃうんか」と言いながら、私達が玄関に脱いだ靴の方を見たり、奥の方をのぞいたりしていたが、「留守やったらしょうないなあ、貸した50万と利息を貰いに来たんやけど、ほんなら奥さん、あんた、なんぼでもええから返して貰おか」とすごんで言う。
  母は、「本当にご迷惑かけてすみません。いくらかでもあればお渡ししますが本当にないんです。お米を買うお金もなく、この子らも、きのうからご飯も食べてないんです」と泣きながら言っていたのをはっきり覚えている。
  あの頃は毎日毎日が本当に空腹であった。私は大変恐ろしかったが、小さいながらも母の陰に隠れて、その人をじっとにらんでいたように思う。
  その人もチラチラと私の方を見ていたが、急に、「ほんだら、また来るわ」と案外あっさりと、今度は静かに戸を閉めて帰って行った。
  その頃の私は大人の事情など分からないので、借金取りは皆、父や母をいじめに来る悪い奴だと思っていた。しかし、ほかの借金取り達は皆、長い時間、父や母を苦しめていたように思うが、その人は帰るのが早かったので母もほっとしていたのではなかろうか。
  その日の夕方のことである。表の電柱の所に朝来たその人が立っていた。その人は私を見ると手招きして、「ボクちょっとおいで」と言う。私が恐る恐る近づいて行くと、「今朝は大きな声を出してごめんな、おかあちゃんを泣かしてしもて」と、私の頭をなでながら、「おっちゃん、今朝のこと、あやまりに来たんやけど、また行って、おかあちゃん、びっくりしたらあかんから、これ家に持って帰ったり」と言って大きな紙の袋に入った米を持たせてくれた。
  そして、その米の袋の中にパンを2つ入れてくれて、「ボクお腹すいたやろ、はよ持って帰って、おかあちゃんと一緒に食べ。おっちゃんは、もう二度とけえへんから心配せえへんように言うといてや。おとうちゃんの仕事、はよ見付かったらええのになあ。ほんならバイバイ」と言って帰って行った。
  私は何か、こう怖いような、うれしいような、とにかくびっくりして、その重たい袋を家に持って入っていった。母は私を見るなり、「なんやそれ?」と言って、私の話を聞くなり、すぐ表に飛び出したが、もう、そのおっちゃんはいなかった。
  母は表に向かって長い間、手を合わせていた。私も物を貰ったからではなく、そのおっちゃんの言葉や母の今の態度から見て、あのおっちゃんは、朝は怖かったけれど本当はやさしい、ええおっちゃんなんやと思うようになっていた。
  その時のパンのおいしかったこと、また、その日の晩、おかずこそ何もなかったけれど親子6人、久しぶりにお腹一杯、おにぎりを食べたあの味は今も忘れないし、今でもおにぎりを見ると、あの頃のことを思い出す。
  その日ぼろぼろに疲れて帰宅した父は、母からこの話を聞くなり、すぐ、あのおっちゃんの所へお礼に行くかどうか随分迷ったそうであるが、結局、一銭もなしで行くわけにもいかず、少しでもお金が出来てから行くことになったらしい。
  それから数力月。父の就職もやっと決まり給料を貰うようになり、母も働くようになり、やっと食べることだけはなんとか出来、残りはもちろん借金払いにまわしてと、そんな日々が続くようになった頃、ちょうど、あのおっちやんがお米とパンを恵んでくれた日から半年ほど後の頃だろうか。父がいくばくかのお金を封筒に入れながら母に、「利息にもなれへんけれど次は木下さんの所へ行ってくる」と言っている。
  木下さんとは、あのおっちゃんのことである。母も一緒に行くと言うので二人で出かけていった。私もあのおっちやんには親切にしてもらったという思いがあるので、子供ながらに、いろいろと気になっていたように思う。
  長い時間が過ぎた後、両親そろって帰ってきた。が、あのおっちゃんはもう前の所にはいないという。近所の人にも聞き、役所まで調べに行ったが分からなかったらしい。そうなると、ますます気になる。
  だが、それから本当に、あのおっちゃんは二度と来なかった。50万円といえば今でも大金であるが、当時の値打ちは今の何百万円に相当するだろうか。
  父が事業に失敗して以来10何年、両親とも休むことなく、こつこつ働いて私達4人の子供を大きくしてくれた。他の借金も全部払い、小さいながらもまた商売をはじめ、自分の家も持つまでになった。今は私達4人の子供も皆、自立している。やっとお金にも心にも体にもゆとりが出来てきた頃、父は他界した。ちょうど10年前である。
  私が成人する頃にふと気が付いたことなのであるが、いつ見ても仏壇の中に百万円の束ががひとつ入れてある。母に聞くと、木下さんに、いつどこで逢っても、借りた50万円と利息分50万円を返せるようにとのことなのだ。百万円位ではもちろん全然足りないのであるが、とりあえずそうしているとのことであった。
  私は、泥棒でも入ったら大変だし、いくらかでも利息が付くのだから銀行にでも預けておくよう再三、言ったが、父は頑として聞かない。正直で一徹者の父である。
  その父が亡くなる2年ほど前のことであるが、久しぶりに父と一緒に近くの銭湯に行った。そこでの出来事である。5人ほどの日焼けした、たくましい体の男達の端っこで一人の老人が体を洗っていた。老人といってもやはり体はたくましかった。父と同年輩くらいだろうか、両肩に入れ墨を入れてはいるが年がいっているせいか、かなりかすんだ入れ墨である。若い時はさぞかし、きれいなものであったろう。
  その入れ墨の人が湯船に入った。入れ墨を入れているのでやはり人目を引くのか、父もその老人を見ていた。老人は湯に浸りながら、「あーええ湯やなあ」と誰に言うともなく手で顔を洗っていた。その左手には小指がなかった。
  父はまだずっと見ていたので、私は、ほかの若い男達もいることだし、何か因縁でもつけられては大変と思い、父の腕をそっとつついて、見るなというふうに、うながしたのだが、まだ父は見ていた。老人は自分が見られているとも知らず、一人で、「あーあー」と言いながら気持ちよさそうに湯に浸っている。
  すると父は急に何を思ったのか、まだ体も洗っていないのに脱衣場まで出て体を拭き始めた。私も何事かと父の後を追い、「なんやねんな、おとうちゃん、まだ入ったばっかりやのに」と言うと父は、「間違いあらへん、木下さんや、あの入れ墨の人」と言い、私に、「お前、すぐ家に帰って、あの仏壇の百万円を持って来い」と言う。「わしはここで待ってるからすぐ行け」と急き立てた。
  そのふろ屋から自宅までゆっくり歩いても2、3分の距離であったが、私も思いっきり走って、すぐ、ふろ屋まで戻ってきた。もちろん百万円を持ってである。
  父は私の顔を見ると、安心したような緊張したような顔をして、「表で待ってよか」と言って、さっさと出ていった。番台のおばちゃんもけげんな顔をしていた。表で待っていると間もなく母も小走りでかけつけてきた。ひとこと、お礼を言いたかったのであろう。
  父は相変わらず緊張した顔つきで口を真一文字にむすんで銭湯ののれんを見つめていた。しばらくして若い男達と一緒に老人が出てきた。皆、作業着を着た土方姿であるが、ふろあがりのさっぱりしたきれいな顔である。
  父はすぐ老人の所へ行き、「木下さんお久しぶりです、鈴木です。お宅にお世話になって長いことご迷惑をかけていた鈴木です。覚えていやはりますやろ」と言って、皆より少し離れたところへ行き、「本当に長いことすんまへんでした。あの時、借りた50万円と、利息には足りませんが、もう50万円の百万円お返ししますので、どうか受け取って下さい」と言うと、老人はやっと思い出したようで、「ああ鈴木はんかいな、ほんまに久しぶりやなあ、せやけど、そんな大昔のこと、もう忘れてしもうたし、第一、時効やがなあ、ははは、せやからその金、しもうとき」と言って受け取らなかった。
  母もそばに来て、「木下さん、あの時は本当にありがとうございました、あの時貰ったお米で、どれだけ助かったか分かりませんし、この子もすごく喜んで、『おっちゃんが、おっちゃんが』と言って帰ってきました。どうか受け取って下さい」と言っている。
  私も「おっちゃん」と喉まで出かかった言葉をかみころし、「あの時のパンとお米、本当にありがとうございました。今でもあの時のおいしかったことを忘れはしません」と礼を言った。
  そばで見ると、なるほど年老いてはいるが、まさにあの時のおっちゃんの顔だ。すると木下さんは、「ほうかいな、あの時のぼんが、こんなになってえ」と嬉しそうな顔をしてくれた。
  私も33歳になっていた。父と木下さんはいろいろやりとりをしていたが、木下さんは頑として受け取らない。話の内容は、今このような土方仕事をしているが別に金に困ってのことではない。こう見えても、あの人夫達の親方であること、他にもまだ10数人の働き手がいて、ちょっとした土建会社の社長であること。今日は近くの現場の仕事が終わったので、皆を連れて一杯飲みに行くところだったとのことである。
  結局、父がいくら言っても木下さんがその金を受け取ろうとしないので、母も最後にはすがるように、「お願いですから受け取って下さい」と、ついに泣いてしまった。
  すると木下さんは、「しゃあないなあ、奥さんもよう泣くお人や、よっしゃ分かった、ほな、こないしょう、この金は一旦返して貰うわ、ほんで鈴木はん、あんた、また商売始めてるそうやさかい、その祝いや、ほんのわしの気持ちやから受け取ってんか」と言って、無理やり父のポケットにつっこんだ。
  そして、「それやったら鈴木はんも納得いかんやろうから、これから、うちの奴ら連れて飲みに行って、めし食わすんやけど、それを鈴木はんのおごりでたのむわ。奥さんも、にいちゃんも一緒にどないや、あいつらはちょっとやかましいけど、皆ええ奴やから」と言う。
  父も母もついに負けてしまった。異存のあるはずがない。
  それ以来、木下さんとは年に4、5回行ったり来たりのつきあいである。そして、それは父のいない今も続いている。

 
心に残るとっておきの話・普及版第十二集』(潮文社編集部・編/潮文社・刊)より