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おふくろのおしめ

中條 高徳
 
 アサヒビール顧問
  
  筆者の尊敬する平(たいら)辰さん(日本の台所を任ずる㈱大庄の社長)の母親の実話をご紹介しよう。平成17年、平さんのお母さんが天寿を全うされてこの世を去られた。この時のご挨拶のエッセンスをありのままにお伝えする。

 
私たち兄弟は佐渡に生まれ、島で育ち、18歳のころ上京しました。
 亡くなった母は現代版『おしん』かもしれません。
 祖父に子供がなかったので、末弟(私の父)が世継ぎとされ、父は海軍の軍人でしたので船に乗っており、婿殿不在の平家に嫁いだのが母の八重でした。 (中略)
  母は、子供たちのおしめ(おむつ)を古着の布の切れ端で縫い、汚れたおしめは、凍りつく川に運んで洗ってくれました。
  冬の雪の降る日でした。母のその手はあかぎれで割れ、腫れ上がっていました。血の出てくる割れ口にご飯粒を詰めて耐えていました。
  そんな手であっても、「子供には少しでも温かいおしめを‥‥」と赤ん坊が汚したおしめを洗ってコタツで温めておいてくれました。
  食事をしながら子供におっぱいを飲ませている時など、その子がピリピリと下痢のうんちをし、抱っこしている母の腿(もも)が熱くなってくると、食事を中座してそのおしめをはずし、下痢でただれたお尻を、母は舌で舐めとっては吐き出しながら、コタツで温めてあったおしめに取り換えるのでした。
  いまのように柔らかい紙はなく、紙といえば新聞紙くらいのものでした。また、柔らかい布もなく、おしめも布を縫い合わせているので、それで拭けば赤ん坊のお尻はさらに赤く腫れ上がってしまいます。
 
  母は毎朝4時に起き、12人の家族の朝食を作りました。私は、そのまな板のトントンという音で目を覚ます毎日でした。
  朝食が済むと肥料の糞尿を大きな細長い肥桶(こえおけ)に入れ、天秤棒でかつぎ、1時間もかかる蛇の多い山道を、山の田や畑に運んで行きました。足をすべらせ肥桶ごと倒れ、うんちまみれになったこともありました。
  野良仕事は夜の8時、9時に終わることも多く、常に星を見なければ家に帰ることはありませんでした。
  母が上京してくる時には、足が悪いのを忘れたかのように、米だ芋だと重いものを持ってきてくれました。昭和57年、やる気地蔵を祀った「やる気茶屋」を始めた時、50キロもある石の地蔵さんを背負って佐渡からやってきてくれたのにはびっくりしました。
  母が死を覚悟した時だと思われますが、私に話しかけてきたことがありました。
  「私はもう畑に出られん。田んぼにも行けん。仕事ができなければ人のためにならん。たとえ我が子であっても迷惑はかけたくない」と言い、その後自らの食を細めて水だけとし、大樹が枯れるかのごとく心臓を静かに止めていったのだと思います。

 美しい 死にかた求め 自らの
      食を細めて 枯れていく

  偉大なる母に、“無償の愛”の尊さと“大将の道”を教えていただきました。


  並み居る参列者は感電したごとく感動のるつぼに浸った。昭和57年から平さんとご縁をいただき、お母さんとたびたびお会いした私には、すべての人間を抱きしめてくださる慈愛あふれる聖母観音像のようなお母さんであった。
  この親子に接すれば接するほど「この母にしてこの子あり」の感を強くする。親のしつけの大切さをしみじみと感ずるのである。
 
致知』 2009年4月号「巻頭の言葉」 より
※ 文章は一部割愛しています。