熊沢蕃山は冬のさなか、寒い風に吹かれながら中江藤樹の家の軒下に座って入門を迫り、ようやく弟子にしてもらった。しかし、その翌年、父親が浪人してしまった。当時の浪人とは悲惨なもので、貧乏のどん底におちいった。
「せっかくいい先生が見つかったのに、また父上が浪人されたため、お前に苦労かけなければなりませんね」
母親がそういって慰めると、蕃山はこう答えた。
「いえ、母上、私は藤樹先生から伺いましたが、机にかじりついて本の表紙をいじくりまわしていることが修行ではなくて、貧乏で悩むことも、困難におちいることも、災厄に出遭うことも、みな修行である。それによって心に工夫をしなければならないと教えていただきました。私は貧乏をなんとも思ってはおりません」
そして弟や妹を連れて山へ薪を採りに出かけた。
こうして5年間、最低の貧乏生活を耐えつつ藤樹について知行合一の実学を学んだ蕃山は、27歳のとき、備前国の池田光政に召し抱えられることになった。備前に赴くために家を出る際、蕃山はこういう歌を作った。
「うきことの猶この上につもれかし 限りある身の力ためさん」
事実、彼の一生は困難との戦いの連続であった。備前の殿様に仕えているときも、
「熊沢という奴は、公儀の政治向きに対してあれこれ非難している、身の程をわきまえぬ奴である」
と非難する者があって、実際の能力を存分に振るうことができないまま下総の古河に禁錮されて世を終わった。だが、蕃山は不平らしいことは一言もいわず、この歌に表現したままの気構えで押し通したのであった。
熊沢蕃山が、自らの境遇に対して何一つ不平を唱えず、「本でする勉強だけが勉強じゃない」「苦労も勉強だ」といったのは、まさに陽明学の真髄である。それを顕然として実行したところは、知行合一そのものであった。
実は、この歌は山中鹿之助が作ったという説もあるのだが、この小冊子では蕃山の歌として紹介している。念のため付記しておく。
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