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ある女子生徒との出会い

川端美代江
 
石川県金沢市・無職・63歳
  
  私は38年間、高校の保健体育教師として勤務し、2年前に無事定年退職の日を迎えた。24時間が綱渡りの連続のようで、「明日のことは考えない。今日、今、全力投球」と自分に言い聞かせる毎日だった。そんな教師生活を支えてくれたのは、一人の女子生徒との出会いだった。
  教師4年目、長女出産から5カ月後の4月、私は初めてクラス担任になった。ちょうどその年に左上腕中ほどから腕のない女子生徒が入学し、私は彼女のクラスを受け持つことになった。学校長から簡単な身体機能についての説明があり、特別扱いしないようにとの話があった。だが、入学式の時、ぎこちなく着た制服の左袖がぶらぶらしているのが気になった。それからは彼女のどこを見ていいものか、どんな接し方をすればいいものか、悩む毎日だった。
  しかし、彼女は周りの好奇の目を気にしていない様子だった。明るく活発で、他の生徒に見劣りするものは一つもなかった。冬服の時は目立たなかったが、夏服になって半袖の先を結んでいるのを見ていると、あまりにも痛々しくて、私は内心、義手をつけてほしいと思っていた。

 
義手をつけない理由

  一学期の終わりの保護者面談で、初めて彼女の母親から事故に遭った時の詳しい話を聞いた。彼女の母親は「娘は小学校入学の春、ダンプカーに轢かれて左腕を切断しました。義手をつけないのは、娘が右手しかない人間として生まれたのだと認識して強く生きる人間になってほしいからです。もし冷たい義手でもついていれば、その手を眺めて、皆と同じようにこの手が動いたらどんなにいいだろうと思い、苦しむにちがいないと思います」と胸のうちを話された。
  そんな生い立ちを知りながら、私は2学期、とんでもないことをして彼女を心の底から傷つけてしまった。
  私は、体育実技の授業を担当していた。2学期は器械体操で、平均台の授業から入った。足でのステップやターン、ポーズは皆と同じ練習だったが、台上前転の時、彼女には無理と思い、見学させた。私としては両手が使えても難しい技だから、片手の彼女が失敗する姿をクラスメートの前で見せてはいけないという配慮のつもりだったが、彼女の目が一瞬鋭く光った。気になったが、彼女の本当の気持ちを察する力を持っていなかった。台上前転は全員できなかったので、次回に再度挑戦と授業を終了した。

 
皆で泣いた授業

  1週間後、授業を始めようとした時、彼女が私の傍に来て、自分もやらせてほしいと申し出た。その瞬間、私の背筋に冷たいものが走った。頷いた私を確認してから皆の列に加わった。誰もできないまま彼女の番になった。しーんとした静けさの中で、一人で台に上がり、片手で平均台を持ち、後頭部から首、背中へとくるりと一回転して立ち上がった。私は涙と恥ずかしさで、彼女を見ることができなかった。片手というハンディがあるので、最初から無理と決めてかかった自分のおろかさに教師失格を感じた。他の生徒も泣き出した。皆で泣いた。その後は授業にならなかった。
  彼女は先週の授業の後、毎日放課後、一人残って練習したそうだ。平均台からどれだけ転落したことだろう。私の何気ない一言がどんなに彼女を傷つけたことか。言葉で言い訳しても、私は一生許してもらえないと思った。その日から教師として生徒の前に立つ時は、二度と同じ過ちをおかさないように、生徒の無限の能力を信じ、どの生徒も努力すればできるという前提で向き合うことにした。

 
生徒の無限の能力を信じよう

  それから定年退職までの30数年間で、クラス担任や部活動、教科を通して7,000人以上の生徒との出会いがあった。校則違反から非行、家出、家庭内暴力、いじめなど、どの学校でも問題が山積していた。
  時々、先輩教師や同僚から、「生徒に無限の能力があるとは思わない。生徒に、できないことを可能であるかのような幻想を持たせるのは危険ではないか」と忠告を受けたこともあった。しかし、私は誰もが同じレベルに達する能力ではなく、個々の生徒が持っている潜在能力は無限であると反論した。結果ではなく、限界に近いレベルのハードルを設定して、努力を積み重ねる課程を大切にしたかった。
  どんな苦しい時でも、あの時の彼女の瞳が私の背を強く押してくれた。生徒一人ひとりの無限の能力を信じる教師へと私を育ててくれた彼女に、今も感謝の気持ちでいっぱいである。
 
PHP』 2004年3月号 より