ブルーアイランド
エステル・ステッド編 近藤千雄・訳
ハート出版
 
7章 思念の力
 

 地上の人間にとっては、死後の存続の確実な証拠というと、生前の姿をまとって出て来てくれることのようです。今こうして私がお届けしているような精神的ないし主観的な通信は、たとえどんなに説得力のあるものであっても、“証拠”としては受け入れ難いようです。
 そこで、ほとんどの人が物質化現象にばかり関心がいって、本当はもっと真実味があり、外部の要素――霊媒の意識・列席者の猜疑心や偏見等――による影響を受けることが少ない、思念による交霊を軽視してしまいがちです。が、実は、この思念伝達という手段は、その可能性を信じている人が想像しているよりも、はるかに実感があるものなのです。
 生前から親密な間柄だった者のことを強く念じると、その念は生き生きとして活力のあるエネルギーとなり、電波とまったく同じように宙を飛び、間違いなくその霊に届きます。たとえば地上のAという人物がBという他界した人物のことを念じたとします。するとBは瞬時にその念を感じ取ります。こちらへ来ると、感覚が地上時代よりもはるかに鋭敏になっておりますから、そちらから送られた思念は電流ならぬ思念流となって、直接的に感知され、そこに親密な連絡関係が出来あがります。
 こちらへ来て間もないころは何も出来ませんが、こちらの事情に慣れてくると、BはAにその回答のようなものを印象づけることが出来るようになります。AはそれをBからのものとは、まず思わないでしょう。たぶん自分の考えか、一種の妄想くらいにしか思わないでしょう。が、そういう形で届けられている情報は、実際は大変な量にのぼっています。霊の実在を信じている人だけに限りません。誰でも、どこにいても、意念を集中して地上時代に親交のあった人のことを念じると、必ずその霊に通じて、その場へやってきてくれます。人間の方は気づかないかも知れませんが、ちゃんと側に来てくれております。
 この事実から地上の皆さんにご忠告申し上げたいのは、そういう具合に人間が心で念じたことは全て相手に通じておりますから、想念の持ち方に気をつけてほしいということです。想念にもいろいろあります。その全てがこちらへ届き、善きにつけ悪しきにつけ影響を及ぼします。霊の方はその全ての影響をもろに受けるわけではありません。意図的に逃れることは出来ますが、逃れることが出来ない者がいます。それは、ほかでもない、その想念を発した地上の本人です。想念は必ず本人に戻ってくるものだからです。
 今私は、全ての想念が届くと申しましたが、これには但し書きが必要です。心をよぎった思いの全てが届くわけではありません。とくに強く念じた思い、片時も頭から離れないもの、という意味です。摂理の観点からいえば、心に宿したことは大きいことも小さいことも、それなりの反応はあるはずです。が、影響力という点からいえば、たとえば怨みに思うことがあったとしても、それが抑え難い大きなものに増幅しないかぎり、大して重大な影響は及ぼしません。
 ですから、私が“全ての想念”という時は、思いやりの念にしろ邪悪なものにしろ、一心に集中している場合のことを言っているのであって、日常のあれやこれやの“よしなしごと”のことではありません。が、そういう前提があるにしても、心に宿した想念が何らかの形で他に影響を及ぼし、最終的には自分に戻ってくるという話は、容易に信じ難い人が多いことでしょう。しかし、事実なのです。
 実は皆さんは、同じ影響を人間どうしでも受け合っているのです。たとえば、相手がひどく落ち込んでいる場合とか、逆にうれしいことがあって興奮ぎみである場合には、あなたも同じ気分に引き込まれるはずです。それは、言うまでもなく精神的波動のせいであり、沈んだ波動と高揚した波動がその人から出ているわけです。
 強さという点では、両者は同じです。しかし、その作用の仕方が異なります。強烈な想念の作用も同じと思ってください。それを向けられた当事者は、そうとは意識しないかも知れません。が、無意識のうちに、大なり小なり、その影響を受けているばかりでなく、大切なのは、想念そのものは、それを発した人の精神に強く印象づけられていて、表面上の意識では忘れていても、事実上、末永く残って影響を及ぼしていることです。
 死んでこのブルーアイランドに来ると、その全記録を点検させられます。ガウンを着た裁判官がするのではありません。自分自身の霊的自我が行なうのです。霊的自我はそうした思念的体験を細大漏らさず鮮明に思い出すものです。そして、その思念の質に応じて、無念に思ったり、うれしく思ったり、絶望的になったり、満足したりするのです。
 その内容次第で、もう一度地上へ戻って(※@)無分別な心と行為が引き起こした罪を、大きい小さいにかかわらず、全てを償いたいという気持になるのも、その時です。

※@――ここでの意味は、必ずしも再生することではなく、その償いが叶えられる可能性のある地上の人間の背後霊の一人として働く場合もある。あるいは、交霊会を通じて地上の当事者に詫びの気持を伝えることもある。1920年から週1回、60年間にわたって、モーリス・バーバネルという霊言霊媒を通じて霊的教訓を語り続けたシルバー・バーチと名のる霊が支配する交霊会で、次のような興味ぶかいことがあった。
 前にも一度シルバー・バーチを通じてその交霊会のメンバーの一人に、地上時代にかけた迷惑について詫びを述べたことのある霊が、その日にまた同じことについての詫びを改めて届けてきた。そのことについてシルバー・バーチがそのメンバーにこう語った。


 あなたが「もういいのに」と思われる気持は私にもよく理解できます。でも、彼には詫びの気持を述べずにはいられない事情があるのです。懺悔をするということは、あなたに対してというよりは、彼自身にとって意味があるのです。
 他界した者が地上時代の行為について懺悔の気持を何らかの形で届けたいと思うようになるということは、本当の自我に目覚めつつあることの証拠です。あなたにとってはもう過ぎたことであり、忘れていらしたかも知れません。が、その行為、ないしは事実は、霊的自我に刻み込まれていて、霊性が成長し、それについての正しい評価が下されるまでは、絶対に消えることはありません。

 私か皆さんに、地上生活において精神を整え悪感情を抑制するようにとご忠告申し上げるのは、そのためです。地上生活ではそれがいちばん肝要であり、意義ある人生を送るための最高の叡知なのです。厄介なことに人間は、地上にいる間はそのことを悟ってくれません。そう言い聞かされて、内心ではそうに違いないと思いつつも、それが現実の生活に生かされていません。
 皆さんの一人ひとりが発電所であると思ってください。他人にかける迷惑、善意の行為、死後の後悔のタネとなる行ない……どれもこれも自分自身から出ています。そうした行為と想念のすべてが総合されて、死後に置かれる環境をこしらえつつあるのです。寸分の誤差もありません。高等な思念(良心)に忠実に従ったか、低級な悪想念に流されたか、肉体的欲望に負けたか、そうしたものが総合されて、自然の摂理が判決を下すのです。
 地上時代のあなたは、肉体と精神と霊(自我)の3つの要素から成ります。死はそのうちの肉体を滅ぼしますから、霊界では精神と霊だけとなります(※A)。ですから、地上時代から精神を主体にした生活を心がけておくことが大切なわけです。
 むろん、常に選択の自由は残されていますから、やりたいことを好き放題やって、借りは死後に清算するよ、とおっしゃるのなら、それはそれで結構です。今までどおりの生活をお続けになるがよろしい。しかし、いったんこちらへ来たら、もうそれ以上は待ってくれません。このブルーアイランドできれいに清算しなくてはなりません。

※A――実際には霊的身体、つまり精神と霊の活動の媒体がいくつかあり、挿画のように大きく三種類に分けるのがほぼ定説となっている。肉体と異なるのは一定した形態がなく、しかも意念の作用でいかようにも変形する性質があることである。
 肉体が食欲と性欲を基本的本能としているように、幽体は情緒を、霊体は知性を、本体は叡知を基本的本能としている。地上生活ではその全てが脳を通して意識されるが、肉体が滅んだあとは幽体を通して発揮される。その界層を幽界と呼ぶ。幽体が昇華されるにつれて意識の中枢が霊体へと移り、霊界で生活するようになる。さらにその上には本体を使って生活する神界がある。
 しかし、その生活形態が人間に理解できるのは幽界までで、それ以上になると言語による説明が不可能となるらしい。ここに描かれている図(割愛――なわ)は、円満に、そして完全に 発達した場合を平面的に図式化したものであって、実際には一人一人が霊性の発達程度に応じた形体をしているらしい。なお、3つの身体は図のように“層”を成しているのではなく、肉体の中にも他の3つの媒体が融合して存在している。
 各種の霊界通信が一致して述べているのは、人間にとって当たり前に思える地上生活の方が、死後の世界から見るといちばん不思議で奇妙に思えるということである。この種のテーマを理解する際に大切なのは、現在の自分の存在とその生活形態を当たり前と思う固定観念をまず棄て去ることである――訳者。


 神は地球を、人間が楽しめる魅力ある環境にしてくださいました。が、それは、人間をわざと悪の道に誘っておいて、後で懲らしめようという魂胆からではありません。いかなる人間でも等しく満喫できるように、豊富な美と、それを味わう機能を与えてくださっています。精神が肉体をコントロールしているかぎりは、美は美であり続けます。肉体の欲望が先行し精神が堕落しはじめると、厄介なことが待ちうけるようになります。苦しみと後悔が山積みにされて待っております。
 精神の働きはこちらへ来ても同じです。同じ原理に従って働きます。思考力は肉体のあるなしには関係ありません。ですから、そのうち地上に残した愛する人たちとの精神的なつながりをもち、そして大きく影響を及ぼすようになるのは、さして難しいことではありません。もっとも、地上の当人はそうとは気づかないことが多いのですが……。
 この事実のもつ意味をよくお考えいただきたい。他界した家族や知人・友人があなたのもとを訪れることがあるということ、思念こそ実質的な影響をもっているということ、霊との関係はもとより、同じ地上の人間との関係でも、それをうまく結びつけるのも、ぶち壊してしまうのも、呼び寄せるのも、あるいは追い払ってしまうのも、この思念の力であるということです。
 霊界と地上の2つの世界を結ぶのは、思念です。が、それには規律と鍛練が必要です。頭にひらめいたものが全て霊の世界から届けられたと思ってはいけませんが、同時に、スポーツマンが身体を鍛えるように精神を鍛えれば、いざという時には、霊界からも地上界からも、大いなる叡知と援助を祈り求め、そして受けることができるのです。
 
 
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