歴史のミステリー 
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DeAGOSTINE 
キリスト教はなぜ禁じられたのか? 

 キリスト教が受け入れられた理由とは?

【通説】
 ザビエルとアンジローとともに日本をめざしてインドのゴアを発ったのは、スペイン人神父のコスメ・デ・トルレス、同修道士ファン・フェルナンデス、インド人従僕・アマドール、中国人従僕・マヌエルの計6人であった。
 薩摩に上陸した一行は、領主・島津貴久から布教を許されて2ヵ月余り滞在。その後、平戸、豊前、周防を巡って伝道し、1551年1月に京都に到着した。ザビエルが京都をめざした目的は、天皇に謁見して布教の許可を得るためである。来日に先立って、日本人は支配者に対して従順であるとの情報を得ていたザビエルは、日本の国王たる天皇の理解を求めることが何よりも伝道に効率的であると考えたのだ。
 ところが、一行が到着した京都は1467(応仁元)年に勃発した応仁の乱から断続的に続く戦乱によって荒廃し、後奈良天皇の権威は著しく失墜していた。ザビエルはこの現実に失望し、10日ほどで京都を離れたのだった。
 そこでザビエルは方針を転換し、周防に戻って民衆に対する本格的な布教活動を展開する。これが功を奏し、ザビエルは離日する1551年11月までに1000人余りを改宗させたのである。
 当時の日本人が未知の宗教を受け入れた理由は、清貧と貞潔、弱者救済を旨とする宣教師たちにあったといわれている。この時代、特権階級に属していた既存宗教の高僧たちは民衆を見下す態度を隠そうとしなかったが、宣教師たちは辻に立って貧しい人々にも分け隔てなく接し、穏やかな表情で神の救いを説き続けていた。こうした姿勢が、やがて民衆の心を掴んでいったのだ。
 ザビエルが日本を離れたのち、イエズス会は日本での布教活動に本腰を入れ、優れた宣教師たちを次々に派遣した。その結果、17世紀初頭における日本のキリスト教徒は、実に30万人にも達したのである。

【検証】
 来日したザビエル一行を薩摩で迎えたのは福昌寺の住職・忍室であった。忍室は、一行が仏教発祥の地・インドからやって来たこと、数珠に似たロザリオを持っていたことなどから、「天竺(インドの古称)からきた仏教僧」であると思い込んでいた。この勘違いによって、ザビエル一行は大歓迎を受けたのである。
 その後ザビエルは薩摩の島津を皮切りに、平戸の松浦隆信、京都から戻ったのちに周防の大内義隆、豊後の大友義鎮(のちの宗麟)などの各地の領主に進物を贈って布教の許可を得ている。辻説法に立ったこともあったが、あくまでも重視していたのは支配者・権力者の理解を得ることだったのだ。
 そして、その方針はザビエルの後継者たちに受け継がれ、やがて実を結んでいく。九州を中心に洗礼を受けたキリシタン大名が続々と誕生し、彼らの領土でキリスト教徒が急増したのだ。
 それではなぜ、大名たちは改宗したのか。数多くの識者たちはその理由を、やはり「霊魂と胡椒」という布教原理に求めている。伝道と物質的利益の両立を図った宣教師と同様に、大名たちの大半もポルトガルとの貿易で利益を得るという目的をもって入信におよんだというのだ。
 慶應義塾大学教授の高瀬弘一郎氏は『キリシタンの世紀』で、「キリシタン大名第一号」である肥前の大村純忠の例をあげている。同氏によれば、1563 (永禄6)年に洗礼を受けた純忠は、そののちに築城した3つの城に観世音を祀り、1570(永禄13)年には出家して「理専」「理仙」と名乗っていたという。こうしたことから高瀬氏は、「キリシタン改宗の動機、果てはその信仰の純粋性そのものに疑問がわいて来る」と述べているのだ。
 改宗前後の純忠は、隣国・肥前(佐賀)の竜造寺隆信からの圧迫によって窮地に陥っており、イエズス会からの援助に頼っていた。高瀬氏はこうした事実を指摘したうえで、(改宗は)「物質的支援にも通じ、さらにポルトガル貿易船の領内招致にも確実に有利に作用する」として純忠の受洗の動機を説明。「他のキリシタン大名も多かれ少なかれ類似性があった、と考える方が妥当であろう」と結論づけているのである。
 そして、前出の古川氏は大友宗麟が領内にキリスト教を布教させた目的を、「貿易の利を得ること、鉄砲・や大砲などの火器、火薬の原料である硝石を得ること、医術その他西洋文化を導入することにあった」と説明している。
 
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