日本人の誇り
日本人の覚醒と奮起を期待したい 
藤原正彦・著 文春新書
 

 世界7大文明の一つ

 それでは我が国は戦後、どのような基軸で動いて来たのでしょうか。それを考えるには日本人とはどんな民族であったか、という所から始めなければなりません。
 ハーバード大学の国際政治学者サミュエル・ハンティントン教授は、その1990年代のベストセラー『文明の衝突』の中で世界の文明を7つに分けました。中華文明、ヒンドゥー文明、イスラム文明、日本文明、束方正教会文明(ロシアなど)、西欧文明、ラテンアメリカ文明の7つです。
 学者が何かを分類しようとする時、なるべく簡明なものにしようとします。複雑な区分けはもはや分類と呼べないからです。当然、分類を考える誰もが当初、日本という小国だけに存在する日本文明を、中華文明に組み入れようとします。分類は学者によって21個、16個、8個などとさまざまですが、どの学者も、日本文明を独立したものという結論に至るのです。しかも日本文明以外は多くの国にまたがるのに日本文明は日本だけのも
のです。1万年も前の縄文時代からあった土着の文明に、西暦2世紀頃から中華文明が混じり、16世紀中頃からは西欧文明の影響を受けたものの、主に日本という孤島で独自の発達をとげた文明、とみなさざるを得ないからです。明瞭に中華文明に含まれる朝鮮半島などと異なり、日本文明と中華文明は大きく隔っているのです。
 日本文明以外にもエチオピア、モンゴル、チベット、タイなど孤立した文明はありますが、ハンティントンは高度に発達したものだけを対象としたため7つに絞られたのです。
 日本人は古来、新しい進んだ文明に触れると、繊細で知的な民族性だけにすぐに自分達のものと比べ劣等感を抱き、それを見習い取り入れてきました。漢字も仏教も西欧の技術もそうでした。ところが不思議なことに、その劣等感をバネに、それら新文明に必らず日本特有の色を加え、すでにある自分達の文明と融合させた独自のものに作り変えて行くのです。そうやって進化と洗練を繰り返してきた結果が日本文明なのです。
 漢字が来れば間もなく万葉仮名、片仮名、平仮名を発明し、また漢文の訓読などという大奇手を放ち、漢文を日本文に取りこんでしまうのです。
 仏教も飛鳥時代に伝来して間もなく、古来よりある神道との調和を目指した神仏習合という離れ技により融合が図られ、平安時代には本地垂迹(ほんじすいじゃく)説が広がり神仏習合は理論的にも整備されました。他国においてなら恐らく仏教派と神道派との間に猛烈な宗教戦争が始まる所でしょうが、我が国では聖徳太子の「和をもって尊しとなす」がそのまま実行されたのです。明治維新の頃には廃仏棄釈などという不幸で野蛮なことも一時期行なわれましたが、民族精神でもある「和」によって治まりました。だからこそ、文部科学省の調査によると、現在、我が国における宗教の信者数は、自分を仏教系と思う人と神道系と思う人を合わせると2億を超えるのです。見事な数字です。
 さらに遣唐使の終了した平安末期の頃から鎌倉時代にかけては法然、親鸞、日蓮といった大天才を輩出し、日本独自の仏教が創始されました。また禅や儒教は中国では庶民にまでは広がりませんでしたが、日本では鎌倉時代に武士道を通じ武士階層に広まりました。平和な江戸時代になると、山鹿素行などによりこの武士道にはさらに深く儒教が取り入れられ、武士道精神にまで洗練されました。これは講談、読本、謡曲、歌舞伎、能といった大衆文芸や芸能を通じ国民一般に伝わりましたから、ついには国民精神にまでなって行ったのです。
 儒教のベースとなる四書五経は藩校で武士の子弟に学ばれたのは当然ですが、庶民の通う寺小屋でもしばしば教えられました。こうして四書五経は、中国では主に学者や科挙を通った一部エリート官僚のものであったのに、日本では国民の財産となったのです。
 先進中国のものであっても無批判に模倣したわけではありません。中国式の君主専制は「和」に反するので取り入れなかったし、科挙や宦官も取り入れませんでした。馬の去勢は中国だけでなくユーラシア大陸で広く行なわれていたのに、日本では血は不浄と見られていましたし「惻隠(そくいん)」にも反するので取り入れられませんでした。日本人特有の美感に照らし合わせ取捨選択と換骨奪胎を繰り返しながら独自のものとしていきました。
 こうして世界7大文明の一翼を担う、堂々たる日本文明か完成したのです。
 
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