GHQ焚書図書開封1
米占領軍に消された戦前の日本 
西尾幹二 徳間文庫カレッジ 

 日本人が戦後たちまち従順になった諸理由

 報道や書簡の検閲は昭和29年9月から始まっていました。
 その効力があったせいかどうか分かりませんが、焚書が全国各地で行われた頃には、世の中はこぞってアメリカ文化に靡(なび)くようになっていました。前述したように、焚書の最初の命令が出たのは昭和21年で、直後から着手されていたと思いますが、次第に対象の本が増えて、文部次官通達が出されて実際に全国的に行われだしたのは昭和23年7月からです。このころの日本は「アメリカ万々歳」に変わってしまっていたのです。
 昭和23年に私は中学1年で、当時の風潮の変化をはっきり覚えています。
 アメリカ通はにわかに幅を利かせ、アメリカ留学は憧れの的になり、チューインガムとホットドッグとコカ・コーラが流行り出す。映画「ターザン」には人がいっぱい入った。ヒチコックの「断崖」を皮切りに、西部劇の醍醐味を活かしたジョン・フォードの「荒野の決闘」などの洋画に人が群がる。昭和24年にはサンフランシスコ・シールズという大リーグの3Aのチームが来て、羽田空港にはたくさんの女優さんが花束をもって出迎えた。
 いってみれば、日本人挙げてアメリカに夢中になった。あれほどアメリカを憎み、そして戦争までしたのはいったい何だったのかと思うくらい、この国の国民がコロッと変わってしまった。心の奥は分かりませんが、表面的に変わってしまったのは紛れもない事実です。
 この一転した動きとは何だったのか。それは私にとって大きな謎であると同時に、日本人にとってもいまだに大きな謎でありますが、じつはそんなムードの中で焚書の結果もジワジワときいてくるのです。焚書がいつ終わったのかは分かっていません。サンフランシスコ講和の日までつづいたのかどうかも分かっていません。しかしそうした世相の下では第一章に列挙したような本(当HPでは割愛――なわ・ふみひと)が古書店で売られていたとしても誰も買わないはずです。一般の流通機構から新本として消されてしまえば、厭戦気分もあるし、公式に読んでいけない本だといわれると民衆は古い本を顧みず、新しい本にとびつきます。戦争は終わったのです。古い本はだんだん誰にも読まれなくなってしまうのが普通です。日本人の軽薄さもふくめて考えなければならないことかもしれませんが、第一弾に「検閲」があり、第二弾に「焚書」があって、その呪縛で、世の中が変えられてしまったといっていいでしょう。
 あの当時、「青い山脈」という映画が封切られて「古い上衣よ、さようなら」という歌詞が流行りますが、戦前の書籍も「古い上衣」になってしまったのです。そういうムードの中で時代が動いていきました。
 戦争が終わって日本人はまったく「平静」になってしまった。アメリカに対しすっかり「従順」になってしまった。この敵意喪失の原因は何だろうか――ということは今に至るも謎ですが、この点をもう少し掘り下げて、複合的に考えてみたいと思います。
 まず一番に挙げなくてはならないのは簡単なことであります。戦後、日本が経済的に生きていくためにはアメリカのマーケットに依存しなければならなかったという事実です。中国には革命が起こり、朝鮮では戦争が勃発する。そういう時代ですから、アメリカ以外に頼る国がなかった。これは非常に分かりやすい理由です。
 第二の理由は、日本人はもともとアメリカおよびアメリカ人を憎んでいなかったのではないかということです。たとえばポーランド人がロシア人やドイツ人を肉体的に憎んだような、そんな憎しみをアメリカ人に対して懐くことはなかった。日本人がアメリカと戦ったのはプライドのためであった。だから対米戦争は抽象的な戦いであったということがあるのではないか。そもそも戦争の前にアメリカ人の姿を見たことのない日本人が大部分でしたから、具体的な憎悪はなかった。つまり、われわれが戦ったのは目に見えない敵、西欧合理主義だったのではないか。あるいは自分自身の歴史と戦ったという面もあったように思います。
 第三のポイント、これがいちばん大きいかもしれません。地上戦が行われなかったにもかかわらず、空襲と原爆によって叩きのめされたことです。人はささいな侮辱に対しては復讐しようという気持が起こるけれども、巨大な侮辱に対しては復讐できない。そういう心理があります。アジア各国の植民地の人たちはとことん、ささいな侮辱によって欧米先進国から苛(いじ)められてきたわけでありますが、わが国はそういう侮辱を受けないできた。だからずっと戦うこともできたわけですが、明治以来の必死の抵抗も最後に、原爆投下によって打ちのめされ、刀折れ矢尽きてしまった。武力による侮辱によって腰を抜かしてしまった。これが三番目の大きな理由です。
 私が考える四番目の理由は、欧米文明はもともと日本のモデル、模範でした。そういう模範と戦って敗れたというのは非常に厄介なことなのです。私たちが精神において求めていたものを十分に自分のものにしないうちに敗れたことは非常なマイナスです。この問題こそ私たちが「自己処罰」に陥るような複雑な心理になった理由だと思います。
 この他にもいろんな理由があって、戦後の日本人は従順になってしまった。
 日本人はなぜこんなに大人しくなってしまったのか。日本人に執念深さがないのはなぜか。この国の国民の自我の淡白さは何か。弱さは何か。私たちはこれまでいろいろなことを考え続け悩んできました。維新以来わずか70数年という外交の未熟さもあったかもしれない。あるいはまた島国特有の国民性もあるのかもしれない。蓄積された厭戦気分があったのかもしれないし、軍人が威張っていることに対する反発があったかもしれない。のみならず、敗戦を受けて自決した高官が行政府にはひとりもいないという政府の責任の取り方のまずさに対する民衆の怒りもありました。そんなことがいろいろ重なって、複合的にガクンときてしまったのは紛れもない事実です。
 それと同時に、進駐してきたアメリカ軍、イギリス軍が「日本国民の敵はアメリカ、イギリス、ソ連などではなく、これまでの日本の支配階級である」、あるいは「封建的な日本の歴史が敵である」というようなことを言い募った。そういわれて、それまで保ってきた緊張の糸がプツンと切れてしまったのも事実であります。それによって雪崩を打つように日本罪悪史観に打ちのめされていった。
以上、述べたことはすべて十分な理由があることだと思いますが、じつは私はここでひとつまったく違う理由を述べてみたいと考えております。
 
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