歴史から消された
日本人の美徳 
 黄文雄・著 青春出版社 2004年刊

 「話せば分かる」という精神

 井沢元彦氏は『逆説の日本史』(小学館)、第一巻「古代黎明編」のなかで、多くの紙数を割いて「倭」と「和」を精力的に考証した。氏の考証によれば、「和」は儒教精神や儒教倫理にはあまり関係がなく、仏教精神に基づくものだと主張している。
 聖徳太子の憲法十七条において、第一条に「和をもって貴しとす」、第二条に「篤く三宝を敬え」、第三条に「詔を承りては必ず謹め」と定めたことに注目し、この順で重要度を鑑みるのが原則であり、この順になっているのであるから、仏の教えよりも、天皇への忠節よりも、「和」が重要視されていると断言している。
 「五・一五事件」で、当時犬養毅首相は、「問答無用」と青年海軍将校によって暗殺されたが、これは希有な例であり、たいていは犬養首相がそのときいったように「話せば分かる」のが日本の常識である。常に話し合いによって、あるいは根回しの上で問題解決の道を探るのがほとんどであろう。
 聖徳太子は第一条だけでなく、最後の第十七条まで「重大なことがらは必ず論議で決めよ、多くの人々と共に決めれば必ず道理にかなう」と謳っている。
 日本人の協調精神は、今でもこの「話し合い至上主義」に徹しているのではないだろうか。その「和」こそ、日本的集団主義といえよう。
 もちろん、西洋人にも日本人の「和」に相当する集団的意識がある。それがハーモニーである。しかし西洋人の個の意識は、日本人よりも強く、「和」とハーモニーは実態がかなり異なる。西洋では個人主義と合理主義に支えられているので、場合によっては議論百出、百家争鳴の状態になることもある。それは音楽でいえば、オーケストラや混声合唱のように、高低音や不協和音があっても、全体的には美しい響きになる。西洋的民主主義制度は、まさしくこのような多元的な価値観の下で、運営されているのだ。英明なる領袖による鶴の一声で物事を決めていく東洋的な家産制国家とは違うのだ。
 だが、日本的集団主義における「和」は、異論異見があっても、なるべく自己主張を抑え、全体に合わせて国歌斉唱のように、粛々と単音律を歌う。「言挙げしては丸く治まらない」から、「小我を殺して大我に生きる」ことを美徳とする。
 そこから生まれたのが、日本的思いやりであり、集団への忠誠心である。そして日本社会の平等性や均質性も「和」から生まれたのであろう。
 では、いったい日本的な「和」の社会とは、どういう社会であるか。それは中国的「争」の社会と比べてみると一目瞭然だ。
 「争」の社会とは、万人が万人に対して闘いをしている社会である。きわめて西洋的な社会だともいえるが、中国社会の人間対人間の闘争のすさまじさは、西洋のそれには比べられない。
 中国近代思想界の巨頭、梁啓超氏によると、中華帝国は漢から清に至るまでの二千年間、戦乱が八百余年にもわたった。つまり中国民族は一生の三分の一以上を、実質的には戦乱のなかで暮らしているということになる。村vs村の械闘(かいとう)、軍閥vs軍閥の戦闘に至るまで、人と人、集団と集団の殺し合いが絶えることなくつづいてきたのだ。
 ことに政治の世界では、核心にいけばいくほど競争が熾烈になる。中華帝国の皇帝は日本の天皇家のような、万世一系ではなく、易姓革命によって王権が取って代わる。易姓革命とは、ある天子が徳を失い民を治めることができなければ、別の姓の人間を天子とするという思想である。その思想ゆえに、二千年間に歴代皇帝のうち、三分の一が暗殺され毒殺されるということになったのである。政権中枢では、家族でさえも信頼が置けないのだ。
 たとえば漢の武帝と太子との父子の争いが起きた際、首都長安市内が戦場となり、死者は五万人を超えた。唐の太宗の兄弟の争いは数万人の親戚一族郎党が虐殺され、明の太祖の宮廷内で行われた功臣粛清でも、数万人の血が流された。いずれも徹底的人間不信が高じた末の激しい人間同士の殺し合いであった。
 人民中国以降は、中国人社会の戦乱はたしかに一時休戦の状態になり、党内の保革の争いで収まっているかに見える。しかし人vs人の争いは、決して体制が変わったことによって終息するものではない。
 今日でも、市内のバスの中での先陣争い、押し合いへし合いやにらみ合いから街頭の喧嘩、罵り合いの光景は、短期の旅行中でも随所で見ることができる。日本社会ではなかなか見られない、中国ならではの光景である。
 もちろん日本にも、「門を出れば七人の敵がいる」との諺があるが、中国人社会では、門を出なくても敵は七人ではとても済まないだろう。
 
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