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元首相も学者も明治天皇すり替え説をにおわせる発言をした ■出口■ 慶応3年7月19日『中山忠能日記』では、明治天皇を「寄(奇)兵隊ノ天皇」と記しています。睦仁親王の祖父・忠能がそう書いているんです。 ※『中山忠能日記』 中山忠能の日記。忠能は幕末・維新の公卿で、権大納言忠頼の長男。明治天皇の外祖父で、岩倉具視らと倒幕派公卿の中心として王政復古を指導した。神祇伯、宣教長官等を歴任。 郷土史家の松重楊江氏によると、慶応2年(1866)11月、薩摩の軍船2隻が田布施の米出浜に着岸し、兵800を率いた島津久光は大室家の近くの薩摩屋敷に入ったといいます。 慶応3年(1867)の王政復古の大号令が最初に発せられたのは、大室家の近くの高松八幡宮でした。そのとき、三条実美も同席していました。 また七卿落ちのとき、京都を追放された一行は来島又兵衛らに連れられてひとまず田布施の大室家へ落ち着いたらしい。そこで12歳の寅之祐を見て一同喜び、かわいがって9月いっぱい滞在したといいます。 ■編集部■ そこには八木清之助もいたんでしょうか。 ■出口■ もちろん17歳だった清之助もいたでしょうね。 その間、長州藩の桂小五郎や三条ら公卿たちの世話をしながら、利発な清之助は何を見たのか。寅之祐を「玉」として育て、南朝革命を成し遂げる謀略の密談などに気づかないわけがありません。 翌年、桂小五郎を逃がす手助けをしながら、清之助の心は揺れていたのではないでしょうか。彼らの非情さ、長州の殺し屋軍団の恐ろしさも垣間見ていたのではないか。 孝明天皇の崩御は公式には「疱瘡」による病死とされています。しかし、そのあまりのタイミングのよさに、当時から暗殺説が囁かれていたことも事実です。 ■編集部■ 当時から公式発表は疑われていたんですね。 ■出口■ 平凡社の百科事典には「病状が回復しつつあったときの急死のため毒殺の可能性が高い」と記されています。しかし、本当は刺殺ではなかったでしょうか。 閑院宮家の侍医に、菅修次郎という中国人の医者(本名・菅之修)がいました。法制史学の大家・瀧川政次郎によれば、この菅が、何者かに急に呼び出され、御所とおぼしき場所で瀕死の男を診察したというんですね。 瀕死の男が何者かは一切告げられなかったんですが、菅が診た時点で、男は「脇腹を鋭い刃物で深く刺され、最早絶望状態」だったと日記に書いているといいます。 作曲家の宮崎鉄雄氏の証言もあります。宮崎氏の父は渡辺平左衛門章綱といって幕末に大坂城定番を務めていましたが、維新後、徳川慶喜の依頼で孝明天皇暗殺事件を調査し、犯人が岩倉具視と伊藤博文であることを突き止めたといいます。 しかし、そのため伊藤博文に命を狙われ、長州の刺客に稲佐橋の付近で襲われ重傷を負いました。その平左衛門の遺言によれば、1866年12月25日、孝明天皇は疱瘡も快癒し、愛人の堀河紀子の邸を訪ねましたが、伊藤博文が中2階の厠に忍びこみ、手洗いに立った孝明天皇を床下から刀で刺し、邸前の小川の水で刀と血みどろの腕をていねいに洗い去っていったというのです。 ■編集部■ 衝撃的な証言ですね。 ■出口■ また明治42年、伊藤博文をハルピン駅頭で射殺した韓国の壮士・安重根は、その斬奸状(ざんかんじょう)の中で、伊藤の罪状15力条を挙げています。 ■加治■ はい、柄本明のそっくりさん(笑)。 ■出口■ そこで、 「今ヲ去ル四十二年前、現日本皇帝ノ御父君ニ当ラセラル御方ヲ伊藤サンガ失イマシタ。ソノ事「ミナ韓国民が知ごアオリマス」(今を去る42年前、現日本皇帝の父君に当たらせられるお方を伊藤さんが殺した。そのことは韓国民はみな知っている) と書いているんですね。 ※安重根 朝鮮の独立運動家。日本の朝鮮侵略の動きに対し、1907年頃から義兵運動を展開。1909年、ハルビン駅頭で初代韓国統監だった伊藤博文を暗殺し、翌年処刑された。アン・ジュングン。 ■編集部■ 「韓国民はみんな知っている」とはすごい主張ですね。 ■出口■ しかし、孝明天皇が本当に暗殺されたとすると、問題はその先です。睦仁親王がこの父親殺しの陰謀を知ったとき、どういう態度に出るかですよね。 そこで倒幕派は、毒を食らわば皿までということで、睦仁親王をも密殺し、かねてから替え玉として用意しておいた大室寅之祐にすり替えたのではないか。少なくとも私の父はそう信じて調査していたんです。 特に大きな実績のなかった伊藤博文が、なぜ維新後、急に出世したのか。それは孝明暗殺の隠れた手柄と、明治天皇こと大室寅之祐と力士隊の仲間であったことによるものかもしれません。 大室寅之祐は、突然行方不明になったんですね。16歳のときに長州藩士に呼び出されて、そのまま帰らなかったというんですね。 ■加治■ 七卿落ちのときに三条実美らがわざわざ田布施に泊まっているので、そのときに大室寅之祐に初めて会ったのは自然です。 写真を見てもわかる通り、大室寅之祐は睦仁親王とは違ってがっちりした体型だから、三条は「気に入った」と言ったと、地元では言い伝えられています。 僕が取材したときは、大室家にアプローチしたけれども断られましたね。直系の長男は役所に勤めていて、そっとしておいてくださいということでダメでした。 田布施町郷土館があって、そこの館長もその話は知っていましたが、「どうなんですかね」みたいな感じで。で、この辺の人々は全員知っているのかと聞いたら、もちろん町民はみんな知っていると。 ■出口■ 『裏切られた三人の天皇――明治維新の謎」(鹿島昇著、新国民社)によると、岸信介元総理も、「今の天皇家は明治天皇のときに新しくなったのだ。実はそれまでの天皇家とは断絶している」と発言したとされています。 ■加治■ 今の政治家の多くは僕の本を読んで知っているし、本は安倍首相にも渡っています。とある代議士が安倍さんに、僕の本を読んでどう思ったかと聞いたら、ニヤッと笑って答えなかったそうですが。 ■出口■ ジャーナリストの大宅壮一も『実録・天皇記』という本で、「明治の新政府ができて間もなく、十六歳の少年天皇がわがままをして“元勲”の言うことを聞かないと西郷隆盛は、『そんなことではまた昔の身分にかえしますぞ』といって叱りつけた」と書いています。「昔の身分」なんてことを言ったから、西郷はやられたのではないですか。 ■加治■ 明治天皇は、西郷隆盛を異常に恐れていたものね。西南戦争のときに、思いつめた西郷は政府に問責しようとしましたが、この問責は「すり替え」の事実をちゃんと公表しろということでしょう。 ■出口■ 江藤新平も西郷も、さらし首になっていますね。 ■加治■ 天皇が、西郷が自刃したと聞いたら、本当に喜んで、次の手紙を有栖川宮熾仁親王に出しました。 「戦賊巣をほろぼし巨魁を斃(たお)し事全く平定に帰すと、朕大に懐(こころ)を慰(いや)す」(戦犯の巣を滅ぼし巨悪を倒し平定したこと、私は大いに安心した)。すごい台詞です。 ■出口■ よほど怖かったんですね。 ■加治■ 最初に御所で天皇を鍛えたのは西郷ですが、何といいますか、実直な堅物です。だんだん居心地が悪くなって、避けるようになる。 ■出口■ 大室寅之祐がもし長州力士隊に入っていたとしたら、その隊長が伊藤博文で、しかも同い年なので、伊藤は昔からの秘密も知っていると思うんです。 ■加治■ 伊藤博文は天皇を呼び捨てにしていたとか、叱っていたとかいう話がありますね。 ■出口■ 伊藤博文なんかは本当に下級藩士だったのに、天下を取って総理大臣にまでなるというのは、何か裏の事情がないとあり得ない。 |
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