古代霊は語る
シルバー・バーチ霊訓より
近藤千雄・訳編 潮文社 
第3章 再生 ――生まれ変わり――

 類魂について @

 さて今私たちが“自分”として意識しているものは実は絶対的な個人的存在ではなく、真の自我である大きな意識体の一部又は一面にすぎない。その個人的存在の彼方にある大我へ回帰していく過程がとりもなおさず人生であるというわけです。
 その個人的存在を超えた意識の集団をマイヤースはGroup Soulと呼び、これを浅野氏は「類魂」と訳しました。達意の名訳というべきで、これよりほかにいい訳語が思い当たりませんが、問題はその正しい理解です。マイヤースの通信を読んでみましょう。まずThe Road to Immortalityから――

 類魂は見方によっては単数でもあり複数でもある。一個のスピリットが複数の類魂を一つにまとめているのである。脳の中に幾つかの中枢があるように、心霊的生活においても一個のスピリットによって結ばれた一団の霊魂があり、それが霊的養分を右のスピリットから貰うのである。
 私はさきに帰幽者を大別して「霊の人」「魂の人」「肉の人」の3つに分けたが、その中の「魂の人」となると大部分は再び地上生活に戻りたいとは思わない。が彼らを統一しているスピリットは幾度でも地上生活を求める。そしてそのスピリットが類魂同士の強いきずなとなって、進化向上の過程において互いに反応し合い刺激し合うのである。従って私が霊的祖先というとき、それは肉体的祖先のことではなく、そうした一個のスピリットによって私と結びつけられた類魂の先輩たちのことを言うのである。一個のスピリットの内に含まれる魂の数は20の場合もあれば百の場合もあり、また千の場合もあり、その数は一定しない。ただ仏教でいうところの業(カルマ)は確かに前世から背負ってくるのであるが、それは往々にして私自身の前世の業ではなくて、私よりずっと以前に地上生活を送った類魂の一つが残していった型(パターン)のことをさすことがある。同様に私も自分が送った地上生活によって類魂の他の一人に型を残すことになる。かくして吾々はいずれも独立した存在でありながら、同時に又、いろいろな界で生活している他の霊的仲間だちからの影響を受け合うのである。
 そしてこの死後の世界に来て霊的に向上していくにつれて、われわれは次第にこの類魂の存在を自覚するようになる。そしてついには個人的存在に別れを告げてその類魂の中に没入し、仲間たちの経験までもわがものとしてしまう。ということは、結局人間の存在には二つの面があるということである。すなわち一つは形態の世界における存在であり、もう一つは類魂の一員としての主観的存在である。
 地上の人たちは私のこの類魂説をすぐには受け入れようとしないかも知れない。たぶん彼らは死後において不変の独立性にあこがれるか、あるいは神の大生命の中に一種の精神的気絶を遂げたいと思うであろう。が私の類魂説の中には実はその二つの要素が見事に含まれているのである。すなわちわれわれは立派な個性をもつ独立した存在であると同時に、また全体の中の不可欠の一部分でもあるのである。私のいう第四界(色彩界)、とくに第五界(光焔界)まで進んでくると、全体としての内面的な協調の生活がいかに素晴らしく、また美しいかがしみじみとわかってくる。存在の意義がここに来て一段と深まり、そして強くなる。又ここに来てはじめて地上生活では免れない自己中心性、すなわち自己の物質的生命を維持するために絶え間なく他の物質的表現を破壊していかねばならないという、地上的必要悪から完全に解脱する。


 以上は浅野氏訳の「類魂」の章の主要部分を原書に照らしながら読み易く書き改めたものです。私が浅野氏の訳に出会ったのは高校三年の時、ある先輩の心霊家の家を訪れた際に勝手に書棚をあさっているうちに、昭和初期の『心霊と人生』という月刊誌(浅野氏が主筆)が出てきて、その中に連載されていたのを読んだのが最初でした。
 残念ながらその家には全部は揃っておりませんでした。しかし題名の魅力もさることながら、その内容にただならぬものを感じた私は、大学へ進学してからも何とかしてこの全篇を読みたいという気持を持ち続けました。そして浅野氏のあとを引きついで『心霊と人生』を発行し続けている脇長生氏の主催する都内数力所の心霊の集いに毎週のように出席して、該書をもっている人を探し求めました。そしてついに探し出して、後日それをお借りして徹夜でザラ紙のノートに写しました。いま私が参照しているのもそのノートです。
 その後私はこの『永遠の大道』の原書をバーバネル氏の心霊出版社から取り寄せて、浅野氏の訳と照らし合わせながら読み耽ったものですが、右の「類魂」の章まで読み来たった時、宇宙の壮大でしかもロマンチックな大機構に触れる思いがして、思わず感激し、しばし随喜の涙にくれたことはすでに述べました。
 マイヤースは同書の別のところで、宇宙の創造主は多分大数学者ではなくて大芸術家だろうと述べています。その意味は、宇宙の法則はシルバー・バーチも言っている通り寸分の狂いもなく数学的正確さをもって機能していますが、しかし同時にそこにうまみがあり、美しさがあり、ロマンがあるというのです。私にもそれがわかるような気がします。
 
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