なぜ世界の人々は
「日本の心」に惹かれるのか
 
呉善花・著 PHP研究所
 

2 天国に最も近い国

 明治23年(1890)4月、横浜に来航したラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、さっそく横浜の町を人力車に乗ってひと巡りする。このときハーンは、未知の国にはじめて触れているのだという実感には、誰でもロマンチックな気分が伴うものだが、自分の場合は「この実感が名状し難い神々しいものに変容した」といい、それは「その日のこの世ならぬ美しさによるのであった」と述べている。
 最初の印象は、「こころもち青味を帯びて、異常なほど澄み渡っている」大気の冷たさと日射しの暖かさに包まれて、「世にこれほどにこぢんまりと寛げる乗物があるかと思う」人力車の上から見下ろした、小さな町並みと小さな人々の姿が織りなす、「奇妙にごたごたした愉しい混沌」であった。その見たままに感じた光景をパーツは「小さな妖精の国」と表現している。
 そして、それから「1時間もすると、徐々に目は、家の造り方に何かしら共通の様式があることをおぼろげながら認め始める」というように、その視線はしだいに家々を形づくる諸部材へ、暖簾や看板へ、人々の服装へと微細に行使されていく。ハーンはやがて、「全身汗みずくになっている」車夫の「いともやさしい笑顔」「些細なこちらの好意に対する底なしの感謝」などに心が惹かれ、「こちらに向けられるおびただしい人々の顔の中に」同様の心惹かれるものを「次々と発見することができるようになった」として、次のように書いている。
「誰もが珍しそうに眺めるが、その視線に敵意はおろか、不快なものは何もない。たいていは目が、にっこりと、あるいはかすかに笑っている。こうしたやさしさを含んだ、好奇の目と微笑がもたらす究極の結果は、異国の旅行者に、思わず知らずお伽の国を思わせるのである。(中略)日本の土を踏んだ日の印象を語るとなると、みな、申し合わせたように、この国をお伽の国、そこに住む人をお伽の国の人々と呼ぶ。(中略)こぢんまりと優雅にできている世界、――小柄で、見るもやさしそうな人々が、幸福を祈るがごとく、そろって微笑みかけてくる世界――あらゆる動きがゆったりと穏やかで、声をひそめて語る世界――土地も人も空も、これまでよそで見て知っていたとは似ても似つかぬ世界――そんな世界にいきなり身を置くとき、イギリスの昔話ではぐくまれた想像力の持主なら、昔見た妖精の国の夢がとうとう現実になったと思うのも無理はない」
 ここでハーンが、「みな、申し合わせたように、この国をお伽の国、そこに住む人をお伽の国の人々と呼ぶ」といっているのを、バーンの個人的な趣味による身勝手な誇張と受け取ることはできない。
 明治6年(1873)にイギリスから日本にやってきて海軍兵学校や東京帝大の教授を務めた、バジル・ホール・チェンバレンは、欧米人にとって「古い日本は、妖精の住む小さくてかわいらしい不思議の国であった」と述べている。またイギリスの詩人・エドウィン・アーノルドは、明治22年(1889)に来日歓迎晩餐会の席上で、日本を「地上では天国あるいは極楽にもっとも近づいている国」と称賛し、「その景色は妖精のように優美で、その美術は絶妙であり、その神のようにやさしい性質はさらに美しく、その魅力的な態度、その礼儀正しさは、謙譲であるが卑屈に堕することなく、精巧であるが飾ることもない」と述べている。
 もう一つ例をあげれば、明治11年(1878)に日本各地を巡ったイギリスの女性イザベラ・バードは、米沢の田園風景とそこに暮らす人々の世界を、次のようにまさしく「エデンの園」だと称賛している。
「米沢平野は、南に繁栄する米沢の町があり、北には湯治客の多い温泉場の赤湯があり、まったくエデンの園である。『鋤で耕したというより鉛筆で描いたように』美しい。米、綿、とうもろこし、煙草、麻、藍、大豆、茄子、くるみ、水瓜、きゅうり、柿、杏、ざくろを豊富に栽培している。実り豊かに微笑する大地であり、アジアのアルカデヤ(桃源郷)である。自力で栄えるこの豊沃な大地は、すべて、それを耕作している人びとの所有するところのものである。彼らは、葡萄、いちじく、ざくろの木の下に住み、圧迫のない自由な暮しをしている。これは圧政に苦しむアジアでは珍しい現象である」
 こうした西洋人の日本賛美に触れて、当時の日本の知識人たちには逆に反発する者たちが多かったという。たとえばチェンバレンによれば、先のアーノルドの日本賛辞に対して日本の新聞は、「これは賛辞ではなくわれわれを貶めるものだ、なぜなら彼はわれわれが単なるかわいい虚弱者だと言っているにひとしいからだと論評」したそうである。日本を肯定的に評価されることを嫌う日本人が多いのは、今にはじまることではなかったようである。
 たしかに当時の西洋の知識人たちには、「後進国・日本」への憐れみがあり、「近代文明の高み」から見下した、前近代的な文明地域の人々の素朴さや純粋さを愛でる異国趣味(エキゾチシズム)があったことだろう。彼らが称賛する「純粋さ、誇り高さ、素直さ、勇敢さ」などの「高貴なる精神」は、反面では「無知、粗野、稚拙、下品」などの救済すべき「哀れなる精神」でもあったはずである。
 しかしながら、彼らは、けっしてウソをいったわけではない。それどころか、まことに正直な実感を率直に表明したものといえる。彼らはこれまで体験したことのない大きな異文化ショックを受けたのである。そしてそのショックは、想像を遥かに絶する、称賛せずにはいられなくなる強烈な異質感覚によるものだったはずである。私にはそう信じられるし、その感覚がとてもよく理解できる。
 私と当時の彼らとの違いははっきりしている。一世紀あるいはそれ以上の時代を隔てていることはもちろんだが、私は西洋よりも日本とはずっと文化的な同質性の強い韓国からやってきた者である。しかも、日本よりもかなり「後進的」な韓国からやってきた者である。だから私には彼らのような異国趣味はない。
 そういう私が注目してやまないのは、日本に特有な「美点」あるいは「美風」である。より正確にいえば、「私の国ではあり得ないことだ」という大きな異文化ショックとともに感受される、「心から敬意を感じずにいられなくなる文化の異質性」である。当時の西洋人が当時の日本に感じたのも、まったく同じ性格の異質性だと思う。
 異文化理解については一般的に、「異質性を強調するのではなく、他文化との共通理解や相互理解への道を開いていく態度が、開放的な国際人の態度である」といわれる。しかしながら、いかに異質的かという大きな驚き、ほとんど理解し難いと思える強烈な実感、それらの心的な衝撃なしには、異文化理解への道が本格的に開かれることはない。とくに、深い敬意をもたらす異質感覚を徹底的に思い知っていく体験が、異文化理解の出発点にはなくてはならない不可欠のものと私は思う。
 
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