なぜ世界の人々は
「日本の心」に惹かれるのか
 
呉善花・著 PHP研究所
 

28 俳句が秘める不思議な広がり

 江戸時代にはじまる俳句は、さらに古くからの短歌とともに、現在もなお日本人一般の間で盛んに行なわれている。素朴に思うことは、日本人はなぜこうした「窮屈な定型詩」にこだわり続けてきたのだろうか、ということである。なぜ自由詩よりもいまだに定型詩のほうが盛んなのだろうか。韓国にも時調という短歌に似た定型詩があったが、現在ではすたれてしまい、もっぱら自由詩が行なわれている。
 俳句の魅力とはなんだろうか。さまざまな感じ方があると思うが、俳句が今や世界的な広がりをもって行なわれていることからすれば、外側からの視線ではどのように感じられているかに興味をもつ。横浜生まれのイギリス人、詩人・作家・作曲家のドロシー・ブリトン女史は、芭蕉の『奥の細道』を英訳した書の冒頭に、日本の俳句を称して、直訳すれば次のような自作の英詩を掲げている。

  貝殻
  それは十七音の
  日本の詩――
  小さく整った姿かたちの中に
  さまざまな思いの
  大洋が入っている

 過不足のない、とても素敵な表現である。私にしてもそうだが、多くの外国人が俳句に感じる魅力はまさにその辺にあると思う。どんな理念も主張もないと思われるのに、いやそれだからこそ、自由詩では作り得ない不思議な広がりを感じさせられるのである。
 伝統的な俳句作品が、数多くの西洋語に翻訳されてきているが、そこでよく問題とされるのが、芭蕉の有名な句「古池や蛙飛びこむ水の音」の蛙は一匹なのか複数匹なのかである。今から120年ほど前、この句が最初に英訳されて世界で知られるようになったのは、次の小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)のものといわれる。これでは蛙は複数形となっている。
 これに対して、同時代のイギリスの日本学者バシル・ホール・チェンバレンの英訳では蛙は単数形となっている。見解が分かれていたようだが、現在では単数形で訳すのが一般的である。たとえばドナルド・キーンは次のように訳している。

 The ancient Pond/A frog jumps in/The sound of water.

 蛙は単数か複数か、そんなテーマがあろうとは日本人には思いもよらぬことだったはずである。そもそもこの句から、たくさんの蛙が一斉に池に飛び込む、にぎやかな音のイメージは湧かないからだ。韓国語にも複数形がないからかもしれないが、私も最初から一匹の蛙が池に飛びこむイメージをもった。
 古池はひっそりとした静けさのなかにある、その静けさをわずかに破って一匹の蛙が池に飛び込むポチャンという音、スーッと池に広がる波紋、波紋がゆっくりと消えていくとともに再び静けさが戻ってくる――。そんな感じだろうか。
 ただ、蛙が単数形だとしても、英訳から右のようなイメージを浮かべるには、日本人の心性とともに日本的な風情の在りどころが感受されていなくてはかなり無理だと思う。西洋的な風情を日本語に翻訳するのが困難だということと同じ問題がそこにある。たとえば、日本人が感じる夕陽と西洋人が感じる夕陽は、感覚的には同じでも、心象風景としてはかなり異なるものだろう。
 誰の翻訳かは知らないが、アメリカに住む友人から、アメリカの教科書には「古池や……」の句が次のような訳で載っていると聞いた。

 An old quiet pond/A frog jumps into pond/Splash!/Silence again.

(静かな古池、一匹の蛙が池に飛び込む、[パシャンと]水がはねる、再びの静寂)
 なるほどと思った。これならば、日本的な風情がどんなものかよく知らなくても、自然のなかで一つの小さな動きが生み出している広がりを、それなりにイメージすることができるのではないか。
 日本語原文には、「静かな(quiet)」も「[パシャンと]水がはねる(Splash)」も「再びの静寂(Silence again)」も見えていない。いずれも、日本人の心性では「言うまでもない」ことで、「あえて言わないこと」で示されている。それらを訳文に入れるのはよくないという意見もあるかと思う。それでも、予備知識なしに西洋人がそのまま味わうには、こういうやり方はよいのではないかと思う。
 世界的な日本ブームが起きているのも、「日本人以外にはわからない」とされてきた文化の壁が、こうした試みからしだいに超えられつつあるからなのかもしれない。
 
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