輪廻転生 
驚くべき現代の神話
J・L・ホイットン/J・フィッシャー著
片桐すみ子訳 人文書院
 
 

 第四章 生と生のはざま

 (中略)

 ホイットン博士は30人以上の被験者につき添って、何年がかりかでこの時間と空間のない「囚われた光」の領域へと彼らを連れていった。その体験は筆舌につくしがたい強烈なもので、はじめてそこを訪れる者は言葉を失い、畏れおののきのあまり顔をひきつらせ、あたりのすばらしさを表現しようとしてもただ唇を震わすばかりである。彼らはのちに、その時の溢れんばかりの豊富なイメージや印象の解読に懸命に努力する。ある被験者の話はこうだ。

 「あんなに良い気分になったのは初めてです。この世のものとは思えないような恍惚感。ものすごくまぶしい光。私にはこの世で持っているような身体はなく、かわりに影の身体、アストラル体があって、宙に浮いていました。地面も空もなく、境界のたぐいはありません。何もかも見通せます。他にも人がいて、話をしなくても意志を通じあうことができました……。」

 ホイットン博士が超意識と名づけたこの至福の状態を定義すれば、いかなる存在状態をも超えたリアリティーを知覚することだといえる。これは夢をみている状態や体外離脱体験・前世の再体験などの、どの変成意識とも異なっている。超意識の状態とは、存在の本質と同化し、自分のアイデンティティー感を放棄し、その結果、一見矛盾するようだが実はこれまでになく自己というものをはっきり知るようになる状態である。超意識とは、身体の束縛から解放され、宇宙と一体となって、はてしなくひろがる雲の中の、ひとひらの雲になることなのだ。こういうと、それこそ雲をつかむような話になるかもしれないが、中間世がおとぎばなしの世界だといっているわけではない。その豊かさを味わった者は、自分のおとずれたのが究極のリアリティすなわち、生まれ変わって次の試練をうけるためにそこから船出していき、肉体が死ねばまたそこへ戻ってくる意識の世界なのだ、と知っている。
 ひとたび中間世に足をふみいれると、催眠下の被験者の目の前にはありとあらゆる種類の意味あるできごとや劇がくりひろげられるが、被験者はこの混乱状態をうまくまとめて、自分が何を体験したかを伝えるためにこれを何とか解読し、翻訳しなければならない。結果的には、彼らは無意識のうちに、精神分析の大家カール・ユングが元型と名づけた、集合的無意識から生じた普遍的なシンボルを使ってこれを表現する。バルドの旅行者は、シンボルを通じてこの時空のない世界を理解し、表現するほかはないので、たやすくシンボル化できる人は多くを語るが、視覚化が苦手な人はあまり話をしないことが多い。
 被験者たちがあえてバルドへと入っていったのは単に調査のためであって、生身の人間ではめったに行けない場所への旅の情報を得ること以外には、なんの報酬も期待したわけではなかった。だがまもなく、彼らの体験――「裁判官たち」に出会ってから、来世のための「カルマの台本」を「書く」にいたるまでの――が、実は治療上有意義なものだということがわかってきた。前世からの恐ろしく苦しい記憶を解放することが、多くの人に奇跡的な治療効果をもたらす事実はすでにわかっていたが、そればかりでなく、中間世を体験することで、被験者たちは自分のことをよく理解できるようになったのである。超意識を通じて、彼らは現在の自分がなぜこのような環境にいるのかを知るに至った。さらに、肉体に宿っていない状態にあったとき、自分たちがこれから生まれようとしているこの世でどのような境遇にめぐりあい、どんな事件にかかわりあっていくのかを、選びとったのは自分なのだと悟った。両親、職業、人間関係、喜怒哀楽にかかわる主なできごとも、すでに前もって選ばれていたことがわかったのである。
 中間世への旅はたいてい死の場面からはじまる。ホイットン博士は、催眠状態に入った被験者をまず前世へと連れもどし、その人生の最期の場面をざっと見てから、ソファに横たわるその人をバルドの境界へと到達させる。ときどき「今どこにいますか」「何が見えますか」と質問しながら進み具合をチェックする。典型的な例では、被験者はその前世の体とおぼしきものの中で息をひきとり、それから徐々に、近似死体験の対照研究を行なってきたレイモンド・ムーディー博士やケネス・リング博士、マイケル・セイボム博士、モーリス・ローリングズ博士らの医師の集めた体験談とそっくりな話をしはじめる。
 超意識の状態に入ると被験者の表情はがらりと一変する。死の体験にともなって、まゆをしかめたり顔をゆがめるなど怖れや苦悶の表情が浮かぶが、それが消えるとまず無表情になり、それから安らいでおだやかな表情に変わり、最後には驚きが満面にひろがる。目を閉じてはいても、被験者はまぎれもなく目の前のありさまに心をうばわれ、そのとりこになっている様子である。被験者がその光景にすっかり夢中になっているため、ホイットン博士はしばらくの間質問したり指示を与えたりしてさえぎることはせず、被験者をそのままの状態に放置して、この別世界のリアリティーに慣らしてやる。次に博士がソファに横たわっている人物に話しかけるときには、目の前の人物に対してではなく、あの束の間の人格を生み出してきた「永遠の自己」に向かって話をすることになる。エレクトロニクス関係の技術者をしているある被験者はこう語る。

 「過去世を体験しているとき、自分があきらかに感情的な反応を生じる一つの人格だということはわかるのですが、中間世では目に見える体というものはありません。私はイメージに取り巻かれた観察者なのです。」

 自分が肉体のない存在なのだ、と気づいた時点から真の中間世がはじまる。圧倒されるようなまばゆい光、パノラマのような今までの人生の光景といった「ニア・デス現象」を報告した人々は、中間世を「間近にかいまみる」ことを許されてきた。ニア・デス体験をした患者は、蘇生したとき生と死とのあいだの境目と思われる境界または障壁に近づいた時の話をすることがある。ホイットン博士の被験者はすでに移行を完了しているため、ニア・デス体験者のように旅の途中で次の世界に入れなくなるようなという制約はうけない。だが、いったん波のようにおしよせる恍惚感と、この世のものとは思えない慈悲の光に迎えられ、それに慣れてくると彼らは必ずといっていいほど戸惑ってしまう。バルドでは時間の経過や三次元的感覚がすっかり欠落しているからだ。この世の見方からすれば、理論も秩序も時の経過もない――すべてが同時に起きるのである。
 混沌の中から洞察と理解とを引き出すためにどうすればいいのか、博士にはまもなくわかってきた。すべてが同時に起きて、コラージュの画面のようにたくさんの断片が交ざり合ったところから、ひとつひとつのできごとを取り出して催眠下の被験者に話してもらうのである。この作業は、たとえてみれば、ビー玉がたくさん入った袋へくりかえし手を入れ、一度に一個ずつビー玉を取り出して、順にならべていくようなものだ。私たちも、必要に応じてホイットン博士の被験者たちが報告したさまざまな体験を描写しながら、順をたどって生と生のあいだがどのようなものかを語っていくことにする。しかし、覚えておかねばならないのは、筋道の通っている部分は死の直後と誕生の直前の時期、すなわちこの世にきわめて近いときだけだ、ということである。ではこれから、だれもが共通して報告している中間世の特徴をみていこう。ただし、催眠下の被験者は分かりやすい説明をするというより、バラバラに散らばった断片を伝えてくるだけだということを念頭においていただきたい。これから述べるのは、たくさんの経験を選りすぐって合成した中間世のすがたである。
 
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