進化する魂
ジェームズ・レッドフィールド・著  角川書店
2004年3月刊
 
 

   進化の物語


   僕たちはまず、鉱物になった。
   そして、植物の命へと進み、
   次に動物になって、そのあと、
   人間となった。
   そしていつも、自分の以前の状態を
   忘れてしまった。
   でも時々、春まだ早い頃、
   自分が緑の葉っぱだった時のことを、
   かすかに思い出すこともある。

   そんな時、若者は師を求めて旅に出る。
   赤児は自らの欲望の秘密を知らずに、
   本能的に母親の胸にしがみつく。

   人類は進化の道筋にそって、
   この知恵の発展によって、
   ここまで導かれてきた。

   眠り込んでいるように見えても、
   私たちの中には夢を導いてゆく
   内なる目覚めが宿っている。

   そして、それはいつか、
   自分の真実の姿へと
   私たちを呼び覚ますだろう。

            ルーミー(13世紀)



  かなり以前から、世界中の人々の心に新しい世界観が自然に芽生えつつある。私たちが住むこの地球の未来像はまだ十分明確になっていないが、その世界観は、人間は自分で思っているよりもずっとすばらしい人生を送る能力を持っているという認識に基づいている。そして、その生き方は宇宙そのものの進化とつながっているのだ。私たちがこのつながりを感じるのは、私たちと世界は同じ大いなる源から生み出されており、私たちの隠された神性を明らかにする方向へと、秘かに動かされているからなのである。

  世界は数多くの後退や混乱を経ながらも、時とともに新たな高次の世界へと向かっているという世界観への変化を代表している。この世界観では、個人としての私たちの発達も、基本的に世界の進歩とつながっている。私たちが自分の潜在的な能力を実現していけば、進化しつつある宇宙を形作っている神の顕現をともに担い、さらに推し進めることができるのだ。

 視覚力の拡大

  物が異常によく見える体験を持つスポーツ選手はたくさんいるようだ。数年間、ナショナル・フットボール・リーグの最高のクォーターバックの地位を保っていたジョン・ブロディは、あるとき次のように語っている。

  時間が不思議な感じですごくゆっくりとなり、まるですべての人がスローモーションで動いているように見えました。受け手がパターン通りに走るのを余裕を持って観察でき、しかも、敵の守備陣がいつもと同じに素速く私の方に向かってきていることもわかっていました。

 同様に、ゴルフ選手のジャック・フレックも、1955年のベン・ホーガンとのプレイ・オフに勝った時のことを次のように語っている。

  ホールが洗面器のように大きく見えました。これならはずすはずがないと、突然確信しました。それに疑問を持つのをやめて、その気持ちだけを持ち続けようとしました。

  フットボール選手のマッカーサー・レインは、時々まるで「もう一つの目」で競技場を見ていることがあると言っている。彼によれば、頭よりずっと高いところからまわりを見ていることもあったそうだ。
  こうした体験は、芸術や宗教でのひらめきと同じように、しばしば高次の力によって与えられるようだ。ほとんどの場合は厳しい訓練がその引き金となる。こうした現象は、今までなかったレベルの機能を伴っていることが多い。レインの言う「もう一つの目」や「頭より高いところから見る」というような機能である。そしてこれは、フレックが「疑問を持つのをやめて」と言っているように、鍛錬の結果として完全に自我を明け渡して、おまかせの境地になることを必要としている。

 個を超えた本当の自己(アイデンティティ)  [TOP]

  超常体験には一つの型が見られると思う。全体的に見てみると、それは私たちの中に生まれつつある多くの側面を持つものの一つの現れであるように見える。しかもそのそれぞれがより大きな統合へと向かっているように思えるのだ。拡大した意識、特別な運動能力などが、喜びと意味と目的に満ちあふれたより包括的で豊かな本質へと、私たちを呼んでいるのである。
  私たちはみな、この人生を両親や友達に囲まれた世界で始め、次に次第に自分という意識を広げ始める。そして、社会的なさまざまな物事を理解し、自分というアイデンティティを周囲の大勢の人々と区別し始める。幸運な場合には、自分が特定の家族、社会、国、歴史の中にいるかけがえのない人間であることを知り始める。経験が広がるにつれ、自意識はユニークな歴史を持つ自分としてのアイデンティティへと発展していく。
  しかし、時々、もう一つのアイデンティティ、通常の自分を超えた存在としての自分があることに気づくことがある。

  世界平和のために何年も巡礼を続けたアメリカ人の女性は、世界に奉仕するという新しい使命と新しいアイデンティティをもたらした覚醒が自分にどのように起きたかについて、次のように語っている。

  同朋の多くが飢えているというのに、自分があまりにもたくさんのものを持っていることを、私は次第に居心地悪く感じ始めました。私は他の道を見つけるより他ありません。絶望し、何とかして意味のある人生を見つけたいという思いから、ある日一晩中、森の中を歩き回りました。そのとき、転機が訪れました。私は月明かりの空き地まで行き、そこで祈りました。
  私は何一つ条件を付けずに、私の人生を奉仕のために与え、私の命を捧げたいと心の底から感じました。「どうぞ、私をお使いください!」と神に祈りました。すると、大きなやすらぎが私を包みました。そのときから、私は自分の仕事は、国々の間の平和、グループ間の平和、人々の間の平和、そして内なる平和のために尽くすことだとわかりました。
  そしてある日、私は朝早く散歩に出ました。突然、今までにないほど高揚した気分になりました。そして時間も空間もなく、ただ光なのだとわかりました。まるで地面の上を歩いていない感じでした。まわりには人も動物もいませんでした。しかし、どの花もどの草も、どの木も光をまとっていました。あらゆるものがまわりに光を発し、空中を金粉が横なぐりの雨のように降っていました。
  しかし、もっとも重要なことは、その特別な現象ではありません。重要なのは、すべての創造物が一つであるという悟りでした。私はすでにすべての人間が一つであることは知っていました。しかし今、他のすべての創造物とも一つであることがわかったのです。地上を歩く生き物とも、地上に生えている植物とも一つでした。空気、水、地球そのものも同じです。
  そして、一番すばらしいことは、すべてのものを満たし、すべてを一つに結びつけ、すべてのものに命を与えている存在と一つである、ということでした。多くの人が「神」と呼んでいるものと一つであるということでした。
  この時、巡礼をしようという思いが心に浮かびました。私は自分のすべきことがわかったのです。私は新しいすばらしい世界に入りました。私の人生は意味のある目的を持つすばらしいものとなったのです。


  ラルフ・ウォルド・エマーソンは、このような気づきを次のように書き記している。

  人間の魂は臓器ではなく、すべての臓器に生命を吹き込み、動かしている存在であることをあらゆるものが示している。魂は記憶力や計算能力や比較能力のような機能ではなく、これらの機能を手足のように使う存在である。魂は能力ではなく光なのだ。知性でも意志でもなく、知性や意志の主人である。魂は我々の基礎であり、我々の中に宿っている。何ものも所有せず、そして何ものにも所有されることのない無限のものなのだ。内からまた背後から、一つの光が私たちを通して物の上に輝き、私たちは無であり、すべては光であることに気づかせるのだ。

 環境保護の深まり

  環境を守ることは、今私たちが従わなければならない緊急命令である。植物や動物が急速に姿を消している。川や海が急速に汚染されている。地球全体が危機に瀕していることは事実なのだ。そのことに気がついて、今日、世界の自然の美しさや少なくなっていく資源を再びよみがえらせ、保護するために働く人々が増えている。
  このような環境保護のための活動は、人間の覚醒による能力の進化と密接に呼応している。私たちがこれまで見てきたエゴを超越した体験、つまり、より高く、より広い意味での自己の発見は、自分を取り巻く世界と自分の関係の深さに私たちを気づかせている。これは知識としてではなく、より深い部分で、命がすべてにつながっているという認識とともにやってくる。私たちが基本的にすべてのものと一つであると体験した時、地球のまだ破壊されていない場所を守り、すでに破壊されてしまった場所を回復させようという私たちの気持ちはずっと強くなる。

 臨死体験

  1975年にレイモンド・ムーディが『かいまみた死後の世界』を出版して以来、臨死体験については、医師、神経生理学者、心理学者、精神科医、超心理学者などによって何千件ものケースが研究されている。数年間にわたり『臨死体験研究ジャーナル』が発行され、臨死体験に関する討論の場が提供された。
  この分野の研究は、新しくもたらされた蘇生技術によって大きく進展した。また、この技術の進歩によって、心臓発作、事故などで死の淵まで行った多くの人々が生き返るようになった。今日では、以前であればとても助からなかった危篤状態から助かる人々がますます多くなっている。
  生き返った時、その多くが、体外離脱の体験や、別の世界に行く通路、すでに故人となっている愛する人たちとの出会い、天使のような人物との出会い、輝く光との一体化などの体験を物語っている。体験した人は死後の世界をかいま見たと確信している。そのような体験が数多くあること、そしてそれぞれの話に共通性があること、体験者が確信に満ちて報告する態度は、調査する者を深く感動させる。

 光になる――心と体の同時的な進化

  人間のより大きな可能性を総合的に理解しようとしている私たちは、少なくとも守護霊や天使の導きについて考えてみる必要がある。物質を超えた世界に住む存在が、私たちには理解できない方法で、私たちに影響を与えているのかもしれない。
  実際、変容のための修行は、未来のよりすばらしい人生と同じような生き方へと、多くの人を向かわせている。聡明な知恵を持ち、本当の自分を発見し、無上の喜びと利己心のない愛を体験することによって、私たちと向こう側の世界のベールは薄くなっているのだ。
  私たちの持つすぐれた能力を統合することによって、進化の発展をさらに押し進めることができるのかもしれない。もしそうであれば、こうした進化のプロセスがやがて肉体的存在である私たちを高次の世界とのさらなる調和へと導いていく可能性も考えてみなければならない。
  進化によって無機質から生命と人間の意識が生まれてきた事実を考えてみれば、人間はさらに次の段階に進化していくのかもしれない。おそらく、この世界とそれを超えた世界が1つになり、そこでは私たちの肉体は次第に霊体としての輝きを増してゆくようになるのだろう。
  端的に言えば、私たちの新しい能力は、徐々に今までとは違う光り輝く肉体を生み出してゆくと提案したいのだ。

 キリスト教における栄光に輝く体

  1215年の第4回テラノ宗教会議において、肉体の復活と栄光体はローマカトリック教会の定理として決定された。教会は正式に次のように定義づけた。

  すべての人は、自分自身の今の体のままで復活する。その人の行なったことが良いか悪いかによって、彼らは受け入れられるか否か決まる。

  この文の意味するところは、良き行ないをした者の体は栄光につつまれ、天国に行って神と出会うということである。一見、ばかげているようにも見えるが、この教義は昔から神学者や哲学者の興味を引きつけてきた。こうしたすぐれた思想家たちの心をつかんだという事実は、この教義が「人間の体は美しい神々しい姿へと変容できる」という歴史を超えた直感と通じ合っていることを示している。

  キリスト教の神学者たちは、よく聖パウロの栄光体の4つの形について論じている。4つの形とはインパシビリティ(朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえる)、クラリティ(卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえる)、アジリティ(弱いもので蒔かれ、強いものによみがえる)、サブティリティ(肉の体で蒔かれ、霊の体でよみがえる)である。
  聖トマス・アクィナスは、この栄光体の4つの形について『対異教徒大全』に書き記している。

  神の視野にまで高められた魂の栄光と力は、魂と一体である肉体に、より大きなものを付け加える。神の視野を享受した魂が一種の霊的な光輝に満たされるのと同じように、魂から肉体の中にあふれ出た光によって、肉体は肉体なりに栄光の輝きを放つようになる。(中略)
  魂の命ずる活動や行動をとろうとしても、肉体の弱さから思うにまかせないことがある。しかし、魂が神と一体化し、エネルギーが肉体にあふれ出す時、弱さはあとかたもなく消えてしまう。
  自分に有害なものがやってこようと、彼らがそれにおかされることはない。彼らはもはや苦しまない。苦しまないからといって、感覚がなくなったわけではなく、その感覚を楽しみのために使う。
  肉体は完全に魂の支配下に入り、その魂独自の性格にできる限り近づき、魂とともに感覚を澄まし、身体的欲望を整理して、本質の完全性に近づいてゆく。なぜならば、ものは本質において完全であればあるほど、その内容は形に左右されるからだ。
  そのために、聖パウロは、「肉の体で蒔かれ、霊の体でよみがえる」と書いているのだ。よみがえった体は霊的なものであるが、それ自体が霊そのものというわけではない。霊的実態でもなければ、空気でも風でもないのだ。


  彼は、我々が今持っているこの肉体と同じものが、善行を行なうことによって栄光に輝くと言っている。彼はこの考えを情熱をこめて説いている。
  魂が肉体なしに存在するのは自然に反した状態なのである。肉体から切り離されている魂は不完全なのだ。復活そのものが起こる原因は超自然であるが、復活によって、魂と肉体が再び結合するということは自然なことである。
  聖トマス、そして他のキリスト教の思想家たちは、死後、肉体が腐敗し、なくなってしまうという明白な事実とは矛盾するにもかかわらず、肉体が復活するという考え方を直感的に正しいと感じていた。しかし、そのような直感的認識も、次のような点について説明するのはきわめて難しい。
  私たちの体が死んでから腐敗し、分解したあと、何千年もたってから復活するとしたら、私たちの肉体はどんな物質から再生されるのだろうか? 発達のどの段階で永遠の形となるのだろうか? 生まれつき体に欠陥のある人々は、地上ではなかった部分を新たに与えられるのだろうか? 何も悪いことをしていないのに子供の時に死んでしまった人は、どうなるのだろうか? 天国でも子供のままだろうか?
  このように論理的な問題があるにもかかわらず、キリスト教の多くの神学者たちは「」栄光体はありうる」という信仰を持ち続けている。これらを証明するものとして、キリスト教初期の荒野の預言者や聖人たち、アシジの聖フランチェスコ、クペルティーノのヨセフ、十字架のヨハネ、アヴィラの聖テレサなどに起こった肉体的な超常現象、たとえば、体が光に包まれたとか、空中浮揚、聖痕などがあげられている。

  今日でも一部のキリスト教思想家にとって、栄光体が中心的なテーマとして残っていることは、20世紀のカトリックの作家、ロマノ・ガリディニが次のように書いていることからも知ることができる。

  人間であるということは、肉体を通して表現され、活動を行なっている霊であるということだ。人間であるということは、個人の霊によって動かされている人体組織であるということでもある。霊は自分では手に入れることができない形と能力を、その人体組織に与えるのだ。人間であるということは、歴史の中のある時間、ある場所に存在するということであり、そこで尊厳と責任感を持って活動する。従って、復活するということは、霊的な魂がその本質に従って再び肉体を持つ魂になることである。
  復活とは、魂の抜け出てしまった物質がもう一度生きかえり、霊の入った肉体に戻ることを意味している。しかも、今度は時間にも空間にも支配されない体になっている。


  存在するあらゆる種類の物質の中に「霊」は入りうる。水晶、リンゴの木、馬、鳥、そして人間の中である。それぞれの段階で物質は霊によって、新しい資質や能力だけでなく、新しい性質が与えられる。段階を一歩一歩進むごとに、遅鈍さ、重たさ、束縛、沈黙が克服され、軽やかさ、広がり、高さ、自由などを獲得し、活動範囲が広がり、活動の重要性が増す。行動力と行動半径が大きくなってゆくのだ。
  こうした発展の道筋は、人間になると止まってしまうのだろうか? 我々は直感的に、人間になってもさらにその先に進化してゆくはずだと感じている。人間であることは袋小路に入ったということではない。我々が肉体と呼んでいるものの可能性には限りがないのだ。そして体が人間にまで発達してきたプロセスこそ、そうした可能性がいかなるものかを明確に示唆しているのである。


  人間の肉体は完璧なものであって、それ以上の発達は起こらないというものではなく、発展途上の段階にいるのである。よく手入れをし、十分な運動をおこたらない健康な体は、何も手入れされない体よりずっと完全な「体」でいられるということは自明である。
  しかし、最高の品位を保つ完全な肉体とは、高貴な目的を持ち、十分に思索した者の持つ肉体であろうか。それとも、非知性的で軽薄ではあるが、肉体的な鍛錬をつんだ健康な肉体をいうのであろうか? もし、こんな質問に驚くのであれば、それは私たちが常日頃、人間の体を、動物を見る時と同じように見る癖がついているからだろう。
  しかし、人の体は完全に霊によって決まる。真理を熱心に探求している人の顔は、何も考えない人の顔より、ずっと「霊的(スピリチュアル)」であるばかりでなく、その顔はより本物で、より徹底した「体」なのだ。
  自由で寛大な心の持ち主は、粗野で利己的な人より「霊的」であるばかりでなく、その肉体はより敏感である。人間が全く新しい形の発達を始めると、その体はより活発になり、バイブレーションが高くなる。それは、心と霊の影響をより強く受けるようになるからである。永遠が時間を打ち破り、神の神聖な力が自由に働きだして、霊が神の絶対なる力と純粋さの中で自由になった時、不可能なことなど何一つないだろう。
 
 
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