逝きし世の面影
日本近代素描 T
渡辺京二・著 葦書房 1998年刊 
★なわ・ふみひとの推薦文★ 
 この本の内容をひとくちに言えば、「幕末・維新の時代に訪れた外国人が見た古きよき日本の姿」と言うことができます。しかし、それは単に近代化される前の遅れた社会に見られる素朴さということではなく、世界的にも著しく文化の発達した国家、国民が作り上げた希有な文明と呼ぶべきものなのです。俗に「江戸文明」または「徳川文明」と呼ばれている当時の日本の社会が、いかに世界の目から見て異質のものであり、また汚れのない美しいものであったかが偲ばれる内容となっています。
 その文明は、明治維新後の西欧化の荒波によって、いまや完全に崩壊させられ、まさに過去の幻影となってしまいましたが、私たちはこの国がかつて有していた理想社会と言ってもよい文明の姿を胸に焼き付けておく必要があります。それは、この本に収められている多くの外国人の掛け値のない感想から十分にうかがい知ることができるはずです

 ある文明の幻影

  私はいま、日本近代を主人公とする長い物語の発端に立っている。物語はまず、ひとつの文明の滅亡から始まる。
  日本近代が古い日本の制度や文物のいわば蛮勇を振るった清算の上に建設されたことは、あらためて注意するまでもない陳腐な常識であるだろう。だがその清算がひとつのユニークな文明の滅亡を意味したことは、その様々な含意もあわせて十分に自覚されているとはいえない。われわれはまだ、近代以前の文明はただ変貌しただけで、おなじ日本という文明が時代の装いを替えて今日も続いていると信じているのではなかろうか。つまりすべては、日本文化という持続する実体の変容の過程にすぎないと、おめでたくも錯覚して来たのではあるまいか。
  実は、1回かぎりの有機的な個性としての文明が滅んだのだった。それは江戸文明とか徳川文明とか俗称されるもので、18世紀初頭に確立し、19世紀を通じて存続した古い日本の生活様式である。

  それはいつ死滅したのか。その余映は昭和前期においてさえまだかすかに認められたにせよ、明治末期にその滅亡がほぼ確認されていたことは確実である。そして、それを教えてくれるのは実は異邦人観察者の著述なのである。
  日本近代が前代の文明の滅亡の上にうち立てられたのだという事実を鋭く自覚していたのは、むしろ同時代の異邦人たちである。チェンバレンは1873年(明治6年)に来日し、1911年(明治44年)に最終的に日本を去った人だが、1905年に書いた『日本事物誌』第五版のための「序論」の中で、次のように述べている。

  著者は繰り返し言いたい。古い日本は死んで去ってしまった、そしてその代わりに若い日本の世の中になったと。

  これは単に、時代は移ったとか、日本は変わったとかいう意味ではない。彼は、ひとつの文明が死んだと言っているのだ。だからこそ彼は自著『日本事物誌』のことを、古き日本の「墓碑銘」と呼んだのである。

  日本における近代登山の開拓者ウェストン(1861〜1940)も、1925年(大正14年)に出版した『知られざる日本を旅して』の中で次のように書いている。

  明日の日本が、外面的な物質的進歩と革新の分野において、今日の日本よりはるかに富んだ、おそらくある点ではよりよい国になるのは確かなことだろう。しかし、昨日の日本がそうであったように、昔のように素朴で絵のように美しい国になることはけっしてあるまい

  ウェストンの嘆きは景観の喪失にとどまるものではない。風景の中には人間がおり、その生活があった。「素朴で絵のように美しかった」のは、何よりもまず風景のうちに織りなされる生活の意匠であった。その意匠は永遠に滅んだのである。

  英国の商人クロウは1881年(明治14年)に木曽御嶽に登って「かつて人の手によって乱されたことのない天外の美に感銘を受けるとともに、将来いつか、鉄道が観光客を運び巨大なホテルが建つような変貌がこの地を襲うだろうことを思って嘆息した。
  クロウは木曽の山中で忘れられぬ光景を見た。その須原という村はすでに夕暮れどきで、村人は「炎天下の労働を終え、子ども連れで、ただ一本の通りで世間話にふけり、夕涼みを楽しんでいるところ」だった。道の真中を澄んだ小川が音をたてて流れ、しつらえられた洗い場へ娘たちが「あとからあとから木の桶を持って走っていく。その水を汲んで夕方の浴槽を満たすのである」。
  子どもたちは自分と同じくらいの大きさの子を背負った女の子も含めて、鬼ごっこに余念がない。「この小さな社会の、一見してわかる人づきあいのよさと幸せな様子」を見てクロウは感動した。これは明治14年のことである。
  チェンバレンやウェストンはむろん、古い日本の死滅をほぼ見届けた時点で上のように書いたのである。だが滅亡の予感は、実はそれより遙かに以前、幕末開国期にこの国を訪れた異邦人によっていち早く抱かれていた。
  たとえばハリス(1804〜1878)が、1856年(安政3年)に下田玉泉寺のアメリカ領事館に「この帝国におけるこれまでで最初の領事旗」を掲げたその日の日記に、「厳粛な反省――変化の予兆――疑いもなく新しい時代が始まる。あえて問う。日本の真の幸福となるだろうか」としるしたのは、まさに予見的な例といってよかろう。
  彼は「衣食住に関するかぎり完璧にみえるひとつの生存システムを、ヨーロッパ文明とその異質の信条が破壊し、ともかくも初めのうちはそれに替わるものを提供しない場合、悲惨と革命の長い過程が間違いなく続くだろうことに、愛情にみちた当然の懸念を表明」せずにはおれなかったのである。

  ヒュースケンは有能な通訳として、ハリスに形影のごとくつき従った人であるが、1857年に次のように記した。

  いまや私がいとしさを覚え始めている国よ。この進歩はほんとうにお前のための文明なのか。この国の人びとの質朴な習俗とともに、その飾り気のなさを私は賛美する。この国土の豊かさを見、いたるところに満ちている子どもたちの愉しい笑い声を聞き、そしてどこにも悲惨なものを見いだすことができなかった私は、おお、神よ、この幸福な情景がいまや終わりを迎えようとしており、西洋の人びとが彼らの重大な悪徳を持ち込もうとしているように思われてならない。

  ヒュースケンはこのとき、すでに1年2カ月の観察期間を持っていたのであるから、けっして単なる旅行者の安っぽい感傷を語ったわけではない。
  同様に長崎海軍伝習所の教育隊長カッテンディーケ(1816〜1866)が1859年、帰国に当たって次のような感想を抱いたとき、彼はすでに2年余を長崎で過ごしていて、この国の生活については十分な知見を蓄えていたのである。

  私は心の中で、どうか一度ここに来て、この美しい国を見る幸運にめぐりあいたいものだとひそかに希った。しかし同時に私はまた、日本はこれまで実に幸福に恵まれていたが、今後はどれほど多くの災難に出遭うかと思えば、恐ろしさに耐えなかったゆえに、心も自然に暗くなった。

  異邦人たちが予感し、やがて目撃し証言することになった古き日本の死は、個々の制度や文物や景観の消滅にとどまらぬ、ひとつの全体的関連としての有機的生命、すなわちひとつの個性をもった文明の滅亡であった。
  死んだのは文明であり、それが培った心性である。民族の特性は新たな文明の装いをつけて性懲りもなく再現するが、いったん死に絶えた心性はふたたび戻ってはこない。たとえば昔の日本人の表情を飾ったあのほほえみは、それを生んだ古い心性とともに、永久に消え去ったのである。
  フランス人画家レガメ(1844〜1907)の陳述を聞こう。レガメによれば、日本のほほえみは「すべての礼儀の基本」であって、「生活のあらゆる場で、それがどんなに耐え難く悲しい状況であっても、このほほえみはどうしても必要なのであった」。そしてそれは金であがなわれるものではなく、無償で与えられるのである。

  英国の詩人エドウィン・アーノルド(1822〜1904)が1899年(明治22年)に来日したとき、歓迎晩餐会でスピーチを行なった。アーノルドは日本を「地上で天国paradiseあるいは極楽lotuslandにもっとも近づいている国だ」と賞讃し、「その景色は妖精のように優美で、その美術は絶妙であり、その神のようにやさしい性質はさらに美しく、その魅力的な態度、その礼儀正しさは、謙譲ではあるが卑屈に堕することなく、精巧であるが飾ることもない。これこそ日本を、人生を生き甲斐あらしめるほとんどすべてのことにおいて、あらゆる他国より一段と高い地位に置くものである」と述べた。 

  1858年(安政5年)、日英修好条約を締結するために来日したエルギン卿使節団の一員で、フリゲート艦の艦長だったオズボーンと、エルギンの個人秘書だったオリファントは、日本をバラ色に描いている。。
  オズボーンは最初の寄港地長崎の印象をこう述べている。

  この町でもっとも印象的なのは(そしてそれはわれわれの全員による日本での一般的観察であった)、男も女も子どもも、みんな幸せで満足そうに見えるということだった

  オリファントもいう。

  個人が共同体のために犠牲になる日本で、各人がまったく幸福で満足しているように見えることは、驚くべき事実である。

  オリファントの場合、熱狂は既に長崎で始まっていた。今つぎつぎと展開しつつあるこんなすばらしいプログラムを、上海を出発するときには予想だにしていなかったと言いつつ、彼は次のように話す。

  われわれの最初の日本の印象を伝えようとするには、読者の心に極彩色の絵を示さなければ無理だと思われる。シナとの対照が極めて著しく、文明が高度にある証拠が実に予想外だったし、われわれの訪問の情況がまったく新奇と興味に満ちていたので、彼らのひきおこした興奮と感激との前にわれわれはただ呆然としていた。この愉快きわまる国の思い出を曇らせるいやな連想はまったくない。来る日来る日が、われわれがその中にいた国民の、友好的で寛容な性格の鮮やかな証拠を与えてくれた。

  それまでセイロン、エジプト、ネパール、ロシア、中国など異国についてのゆたかな見聞をもち、そのいくつかについては旅行記もものしてきたこの29歳の英国人が、快いくるめきに似た感動をたっぷりと味わっていることだけはよく伝わってくる。
  彼は日本において、前もって与えられていた予想をただ再強化したのではない。日本の事物は彼にとって「予想外」だったのである。彼は日本訪問を終えたのちに書いた母親への手紙で、「日本人は私がこれまで会った中で、もっとも好感のもてる国民で、日本は貧しさや物乞いのまったくない唯一の国です。私はどんな地位であろうともシナへ行くのはごめんですが、日本なら喜んで出かけます」と述べるほどの日本びいきになっていた。

  あの『ヤング・ジャパン』の著者であるブラック(1826〜1880)は「思うに、他の国々を訪問したあとで、日本に到着する旅行者達が、一番気持ちのよい特徴の一つと思うに違いないことは、乞食がいないことだ」と断言している。

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  19世紀中葉、日本の地を初めて踏んだ欧米人が最初に抱いたのは、「この国民はたしかに満足しており幸福である」という印象だった。ときには辛辣に日本を批判したオールコックでさえ、「日本人はいろいろな欠点をもっているとはいえ、幸福できさくな、不満のない国民であるように思われる」と書いている。ペリーは第2回遠征のさい下田に立ち寄り、「人びとは幸福で満足そう」だと感じた。ペリーの4年後に下田を訪れたオズボーンには、町を壊滅させた大津波のあとにもかかわらず、再建された下田の住民の「誰もがいかなる人びとがそうでありうるよりも、幸せで禍から解放されている」ように見えた。
  ティリーは1858年からロシア艦隊に勤務し、1859年、その一員として訪日した英国人であるが、函館での印象として「健康と満足は男女と子どもの顔に書いてある」という。
  1860年、通商条約締結のため来日したプロシアのオイレンブルク使節団は、その遠征報告書の中でこう述べている。
  「どうみても彼らは健康で幸福な民族であり、外国人などいなくてもよいのかもしれない」。
  1871年(明治4年)に来朝したオーストリアの長老外交官ヒューブナー(1811〜1892)はいう。
  「封建的制度一般、つまり日本を現在まで支配してきた機構について何といわれようが、ともかく衆目の一致する点が一つある。すなわち、ヨーロッパ人が到着した時からごく最近に至るまで、人々は幸せで満足していたのである」。

  オズボーンは江戸上陸当日、「不機嫌でむっつりした顔にはひとつとして出会わなかった」というが、これはほとんどの欧米人観察者の眼にとまった当時の人びとの特徴だった。ボーヴォワルはいう。「この民族は笑い上戸で心の底まで陽気である」。
  「日本人ほど愉快になり易い人種はほとんどあるまい。良いにせよ悪いにせよ、どんな冗談でも笑いこける。そして子供のように、笑い始めたとなると、理由もなく笑い続けるのである」というのはリンダウ(1830〜1910)だ。
  オイレンブルク使節団報告書の著者ベルクの見るところも変わらない。「彼らは、話し合うときには冗談と笑いが興を添える。日本人は生まれつきそういう気質があるのである」。
  1876年(明治9年)来日し、工部大学校の教師をつとめた英国人ディクソン(1854〜1928)は、東京の街頭風景を描写したあとで次のように述べる。
  「ひとつの事実がたちどころに明白になる。つまり上機嫌な様子がゆきわたっているのだ。群衆のあいだでこれほど目につくことはない。彼らは明らかに世の中の苦労をあまり気にしていないのだ。彼らは生活のきびしい現実に対して、ヨーロッパ人ほど敏感ではないらしい。西洋の群衆によく見かける心労にひしがれた顔つきなど全く見られない。頭をまるめた老婆からきやっきゃっと笑っている赤児にいたるまで、彼ら群衆はにこやかに満ち足りている。彼ら老若男女を見ていると、世の中には悲哀など存在しないかに思われてくる」。むろん日本人の生活に悲しみや惨めさが存在しないはずはない。「それでも、人びとの愛想のいい物腰ほど、外国人の心を打ち魅了するものはないという事実は残るのである」。
  ボーヴォワルは日本を訪れる前に、オーストラリア、ジャワ、シャム、中国と歴訪していたのだが、「日本はこの旅行全体を通じ、歩き回った国の中で一番素晴らしい」と感じた。その素晴らしい日本の中でも、「本当の見物」は美術でも演劇でも自然でもなく、「時々刻々の光景、驚くべき奇妙な風習をもつ一民族と接触することとなった最初の数日間の、街や田園の光景」だと彼は思った。「この鳥籠の町のさえずりの中でふざけている道化者の民衆の調子のよさ、活気、軽妙さ、これは一体何であろう」と、彼は嘆声をあげている。彼にとって真の見物は、この調子のいい民衆だったのである。
  水田の中で魚を追っている村の小娘たちは、自分と背丈とあまり変わらぬ弟を背負って、異国人に「オハイオ」と陽気に声をかけてくる。彼を感動させたのは、「例のオハイオやほほえみ」「家族とお茶を飲むように戸口ごとに引きとめる招待や花の贈り物」だった。
  「住民すべての丁重さと愛想のよさ」は筆舌に尽くしがたく、たしかに日本人は「地球上最も礼儀正しい民族」だと思わないわけにはいかない。日本人は「いささか子どもっぽいかも知れないが、親切と純朴、信頼にみちた民族」なのだ。

  リンダウも長崎近郊の農村での経験をこう述べている。
  「私はいつも農夫たちの素晴らしい歓迎を受けたことを決して忘れないであろう。火を求めて農家の玄関先に立ち寄ると、直ちに男の子か女の子があわてて火鉢を持って来てくれるのであった。私が家の中に入るやいなや、父親は私に腰掛けるように勧め、母親は丁寧に挨拶をしてお茶を出してくれる。‥‥もっとも大胆な者は私の服の生地を手で触り、ちっちゃな女の子がたまたま私の髪の毛に触って、笑いながら同時に恥ずかしそうに、逃げ出していくこともあった。いくつかの金属製のボタンを与えると、『大変ありがとう』と、皆揃って何度も繰り返しお礼を言う。そしてひざまずいて、可愛い頭を下げて優しく頬笑むのであったが、社会の下の階層の中でそんな態度に出会って、全く驚いた次第である。私が遠ざかって行くと、道のはずれまで見送ってくれて、ほとんど見えなくなってもまだ、『さよなら、またみょうにち』と私に叫んでいる、あの友情の籠もった声が聞こえるのであった」。
 
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