自在力 
塩谷信男・著 サンマーク出版 1998年刊 

 90を過ぎてますます元気なわたしの生活

 「91歳を迎えてようやく、おのれの人生が花開き、諸事が自在になってきた」
 そういうと、多くの人は何をいまさらと吹き出すかもしれません。あるいは、それはまたずいぶん遅咲きなと同情を寄せてくれるかもしれない。けれどもそれが、今年96歳の、ほぼ1世紀を生きてきた老人の偽りのない実感です。
  50年以上を市井(しせい)の町医者、実地医家として勤め、少なくない人たちの病気を治し、その健康をサポートすることに尽力してきましたが、84歳のときに、その医院を閉じ、いまの熱海のマンションに妻ともども引き移ってきました。相模湾が一望できる風光抜群の、静かで落ち着いたケア付きのマンションで、終(つい)のすみかとしては申し分ありません。
 恵まれた余生といえましょう。しかしわたしはここでいかにも年寄りくさく、ひっそりと隠遁しているわけではない。病気知らずの闊達な日常の暮らしを送り、世間的には大老人の部類の年齢にもかかわらず、健康面でなんの差し障りもなく、毎日を元気に過ごしています。
 歯はすべて自前、背筋もピンと伸びて快食快眠。起居動作に不自由はなく、足腰も丈夫で、週に一度は三島のカントリークラブへ出かけて、ゴルフに興じるのを常としています。加齢による多少のガタは否めませんが、まずは生気横溢(おういつ)にして、老いてますます意気さかんであります。
 その健康長寿、「丈夫で長持ち」の老人をめずらしがって、けっこうひんぱんに講演依頼の声もかかります。それで東京はじめ各地に出向いて、2時間ばかりのスピーチを原稿なしで行なう。腹の底から大きな声も出るし、立ったままの姿勢も苦にはなりません。その合間をぬって本を執筆し、読書もする。
  60歳の体力と健康度をいまだにキープしている自信があります。いや、わたしは60歳を境にそれ以前よりむしろ若返ったと自覚することさえあります。一般には60歳を過ぎて、人の健康度や体力は目に見えて下降するが、わたしの場合、逆にはっきりと上昇を描いています。
 それをわたしがいちばん実感でき、また、若返りのバロメーターとしてだれの目にも明らかなのがゴルフなのです。
 わたしがシングルプレーヤーの仲間入りをしたのは、60歳の還暦を過ぎてからのことなのです。65歳でハンディ9。シニアとグランドシニアチャンピオンなど9つのタイトルを獲得しましたが、それもすべて60歳を超えて以降のこと。ボールがいまほど飛ばない時代に200ヤードを飛ばして、怪物ドクターと新聞に紹介されたのも、医者をやめる直前の83歳のことでした。
  要するに、わたしは60歳を過ぎてから「若返った」のです。それも「若返ってやろう」「シングルプレーヤーになってやろう」と強く決意して、その目標実現のための有効な方法を実践した所産として。つまり、若返りは偶然の結果などでなく、意志的な行為の若返りとしてわたしに与えられたものでした。
 強く願えば物事はかならずかなう――これは本書の重要なテーマのひとつであり、その方法もこのなかで開陳していきますが、まずはそのゴルフに事寄せて、わたしの健康力がいかに非凡なものであるかを、諸事は願えばかならずかなうことの糸口として書いてみましょう。

(ゴルフに関して、94歳で3度目のエイジシュートを達成したこと、それを某テレビ局が、世界一のゴルァーといわれるボビー・ジョーンズと並ぶ偉大なゴルファーだとして放映したことなどが紹介されていますが、割愛します――なわ・ふみひと)

 わたしはエブリワンのさきがけにすぎない  [TOP]

 以上を単なる自慢話と受け取られては、ちょっと困ります。実をいえばエイジシュートを達成しようがしまいが、ナンバーワンでもオンリーワンでも、そんなことはどっちでもいいのです。
 問題は、それが可能な健康と体力をわたしがいまだにもちえていることです。しかも、たまたまわたしが丈夫で長持ちしているのではなく、ひとつの健康法を実行することによって、健康長寿を後天的に獲得したことが肝心なのです。
 わたしは生来、体が弱かった。生まれたときは、この子は長くはもつまいとまでいわれ、その後も幼少期を通じてずっと病気と縁が切れたことはなかった。私の健康の地金はきわめて粗悪で、並以下の体力しかもっていなかったのです。すなわち現在のわたしの壮健ぶりは後天的に自分を鍛えることで身につけたものなのです。
 であれば、ほかの人もまたわたし程度の健康力を手に入れることはむずかしいことではないはずです。つまり、わたしの健康力と健康法には普遍性がある。だれもがわたしレベルの、いやわたし以上の体力と健康を身につけることができるわけで、わたしはそれを身をもって証明しているわけです。
 人間はもともと、最低でも百歳までは健康長寿をまっとうできる可能性と能力をそれぞれの身体のなかにもっている。わたしは実際の裏打ちとともに、そう確信しています。それが可能なようにあらかじめつくられている存在なのです。
 その意味でわたしたちは健康に「なる」のではなく、もともと所有している――しかし潜在化してなかなか発揮できないでいる――健康力に目覚め、本来の能力を「取り戻す」べきだといえます。能力をあらたに備えるというよりは、あらかじめ内在している可能性に気づき、それを顕在化させてやる努力が必要なのです。
 ただしそのためにはひとつだけ条件がある。あるいは、そのひとのことだけを行なえば、内在している健康力を目覚めさせ、心身ともにわたしたちは健やかになれる。それだけでなく、人生における万事を願いどおりにこなし、自在に生きることさえ可能になります。
 そのたったひとつの条件とは「正心調息法」という呼吸法を実行することなのです。

 心身の健康を自在にかなえる呼吸法  [TOP]

 正心調息法は、わたしが長い年月をかけて編み出した特殊な腹式呼吸法です。
 その最大の特徴は、腹式呼吸法(調息)と正しい心の使い方(正心)のふたつの面からなっている点にあります。
 すなわちそれは、@腹式呼吸によって酸素を身体の深奥まで取り入れる。A日々を明るく、前向きに生きるため、正しい心の使い方をする。B自分の願望について「かならずそうなる」「かくあるべし」と強く想念を発し、成功のイメージを抱く。こうした要素を組み合わせることによって、心身の健康を実現させるとともに、人生の諸事や心の願望も自在にこなすことのできるノウハウなのです。

 また日常生活における正しい心の使い方や心がけを、呼吸と同じくらい重視し、とくに次の3つについて、ふだんの暮らしの中で実践することをすすめています。

  @物事をすべて前向きに考える。

  A感謝の心を忘れない。

  B愚痴をこぼさない。


 この3つが人生を明るく楽しく、また自在に過ごすための基礎や土台となる心がけなのです。

 完了形で強くイメージすることが大切  [TOP]

 わたしはあらゆる宗教に対して一定の距離をおいており、特定のものに肩入れするようなことはまったくありませんが、歴史に名を残す宗教家にはやはり尊敬に値する偉大な人物が多く、彼らは物事の本質に届く、鋭い洞察や言葉をたくさん示しているのを知っています。
 たとえばキリスト。キリストは言葉や想念のもつ力に気づき、その効用の大きさを熟知していた数少ない宗教家のひとりだと考えています。一例をあげれば、新約聖書のヨハネによる福音書の冒頭には有名な章句が書かれています。

 「初めに言葉あり、言葉は神とともにあり、言葉は神なりき。この言葉は初めに神とともにあり、よろづのものこれによりて成り、成りたるもの一つとしてこれによらで成りたるものはなし」

 これは言葉や想念の大きな力を明示する教えといえましょう。言葉こそが神そのものであり、万物は言葉によってつくられている。言葉以外でつくられたものは何ひとつない――こういいきっています。言葉は思いが表現された形であり、それはすべてのものを生み出し、形成する原初の成因にほかならない。強い言葉や想念が万物をつくり出すのだ、といっているのです。
 もうひとつ、キリストは次のような言葉も残しています。「なんじら神に祈るときは、その祈りはかなえられたりと思え」。これはとりわけ素晴らしい言葉だとわたしには思えます。つまり、祈った時点ですでにその祈りはかなえられているというのです。願ったことは、願ったがゆえにすでに願ったときに成就するのだ、キリストはそう諭しています。
 その祈りや願いを神が聞き届けたからかなうのではありません。人間がそう強く願ったからかなうのだ――これはなんべんも吟味してもらいたい深い叡知を含んだ言葉です。

 〜してもらいたい、〜できますように、わたしたちは通常そう願い、そのとおりになった場合には、ああ願いがかなったのだ、神が願いを聞き届けてくれたのだと考えます。しかしこれだけでは神と人間の関係が一種の取引関係になってしまいます。願いへの報酬として神が与えてくれた、というような。
 キリストはおそらくこの取引関係をいましめたのでしょう。神の力(わたしの言葉でいえば宇宙無限力)はそんなギブ・アンド・テイクのうえに成立し、「ごほうび」みたいに表されるようなちっぽけなものではない。それはすぐにギブされるのです。祈りは即かなえられ、願いは瞬時に現実化する。その力を神(宇宙無限力)が有しているからです。
 だがその条件として、完了形で「すでにそうなっている」情景を強くイメージすることが大切です。あるいは、そのことはもうかなえられたと断定することが大切なのです。その断定や完了形の認識によって、強い念が発せられ、幽子のレベルで願いがかない、さらに強く念ずることで宇宙無限力をレンズのように集め、三次元の物質世界にも願いが実体化するからです。

 難病を治すときに、「治してください」や「治りますように」というのではダメ。ビジネスを成功させたいときに、「成功しますように」「成功させてください」ではダメ。「治った」「成功した」と断じてしまうことが肝心です。単なる願いや祈りよりも断言のほうがそこに込められた想念ははるかに強いものであり、実現性がグンと高くなるからです。
 目標がとてつもなく大きい場合は、祈りが現実世界でかなうことはそう多くはありません。このことは世界の平和を祈る人は数多くいるのに、いっこうに地球上から争いごとがなくならないことからもわかるでしょう。ただ多くの人が祈るだけでなく、「世界平和はすでになった」と断言し、そのイメージを強く念じれば、世界平和は実現するのです。
 わたしはそれを「大断言」と称して、現在、周囲の人に提唱し、また読者のみなさんにも実行してもらいたいと考えています。

 神も仏もあるから悪いことが起こる  [TOP]

 結局のところ、想念を現実化させるのは、その思いが強いか弱いかという問題に収斂(しゅうれん)されていきます。想念の強弱が願望実現の成否を分けるのであって、その願望の内容は関係ありません。したがって負の想念や悪い想念も、その念が強ければかないます。
 しばしば悪が栄えるのは、それをなす人の思いが、よいことをなそうとする人の思いより切実で強烈だからです。「あいつのせいで仕事に失敗した」「あいつなんかケガでもすればいいんだ」「あいつさえいなければおれの成功は間違いない。病気にかかって倒れてしまえ」「どんなことをしても大金が欲しい」――こういった恨みや嫉妬、怨念のような“よこしまな”マイナス願望も、強烈に願えば叶ってしまうのです。
 これについて、わたしはこう解釈しています。神は、すなわち宇宙無限力は、人間を人間としてつくった。神の操り人形としてはこしらえなかった。
 だから人間に自由意思というものを与えた。人間がみずからの意思や判断で思い、行動し、その責任をとるようになさしめた。だから自由意思で悪を選択すれば、それもかなうようになっているのです。
 神の力をもってすれば、人間を神の考えるようにしか行動できないようにこしらえることは容易だったでしょう。いいことしかしない、悪いことは絶対しない、人間をそのようにつくることなど簡単だったでしょう。しかし、それでは人間はロボットになってしまう。人間を人間たらしめるのは自由意思なのです。
 だから自分の意思で物事をよくもできれば、悪くもできる。善行も行えば悪行もする。プラスの想念も発すれば、邪気も発する。自分の意思で自由にやれる。正邪、善悪どちらの行為も自分で選べるように、神は人間を創造したのです。
 世の中には悪いことばかり起こる、まったく神も仏もない――そうではないのです。神も仏もあるから、悪いことも起こるのです。それが人間の自由意思にまかされているからです。
 したがって、強く願えば悪いことも否定的な感情もすべて現実化されます。ただし、その責任もまた人間はおのれで引き受けなくてはなりません。悪いことをすれば、そのぶんわたしたちは悪い因をつくることになります。この因はどこかでかならず果となって、自分の身にふりかかってくるのです。
 悪い念でだれかにダメージを与えたり、足を引っ張ったら、それと同様の、あるいはそれ以上の災難や災いがめぐってくるのです。いわゆる因果応報です。人を呪わば穴二つということわざは正しいのです。そして恩は倍返しだが、悪い報いは三倍返しなのです。だから悪い想念も強く願えばかなうが、それによってさらに悪い事態を引き寄せてしまう。長い目で見れば、悪徳や想念の悪用はマイナスの帳尻しかもたらさないのです。
 よって悪いことはすべきでない、という修身くさい教訓をここで安易に述べるつもりはありませんが、因果応報のサイクルによって、悪いことをした人間もあくまでその自由意思のもとでよい方向に目覚めさせる。そういう機会を、神は人間のちっぽけな心のサイズではとても測りきれない大きな意思によって、人間に与えてくれているといえます。

 これら3つの「正心」を心がけて生きよ  [TOP]

 ここで正心調息法における心の使い方についてくわしく述べておきましょう。

@物事をすべて前向きに考える

A感謝の心を忘れない

B愚痴をこぼさない


 これはもともと前向き、成長志向でできているわたしたちの本質を、その本然どおりに発現させるために有効な心のはたらかせ方でもあります。もちろん正しい心の使い方はこの3つにかぎりません。このほかにもたくさんありますが、日常生活の中でだれにもわかりやすく実践しやすい心がけとして、とくにこの3つを強調しているものです。
 @の「物事をすべて前向きに考える」ということですが、その効果は体の免疫力を高めるなど健康にまでおよんでいることがわかっています。
 自分に与えられた条件、目の前にひらけた状況に対して常に肯定的、積極的なとらえ方をすること。たとえば病気をした場合、仕事ができなくなったり、金銭的な負担が発生したりというマイナス部分は出てきます。しかし、物事には必ず二面性があって、病気をしたことで人のやさしさに気づいたり、他人の親切のありがたさが本当に理解できたりするプラス面もある。
 だからどんなマイナス状況や経験でも、自分にとってよいほうへ展開するのだと肯定的に考えることが大切です。
 またどちらを選ぼうかと二者択一に迫られた場合は、かならず積極策を選択することです。それによって行動も積極的になり、成功する確率は高くなる。たとえ失敗したときでも、そこから教訓を得るなど将来への種子を獲得することができるのです。いってみれば「反省しても後悔はしない」姿勢が大切といえます。
 Aの「感謝の心を忘れない」――心というのは波動であり、こちらが発している波長に見合った出来事が人間には起こります。よい波長を出している人にはよいことが起こるのです。したがって、いつも感謝の念を心にもっていると、感謝せざるをえないことが次々と生起してきます。
 特別な感謝の対象は必要ありません。ただ、ありがたい、何に対してもありがたいと感謝する気持ちが大切です。ありがたいと思えるようなことは身の回りに何ひとつないという人もいるかもしれない。しかし、考えてみれば、人間が毎日無事平穏に生活を送っていることだけでもたいへんありがたいことなのです。
 わたしたちはけっして自分の力だけで生きているのではありません。家族や周囲の人の助けや好意、自然からの恩恵、そして目には見えない宇宙の無限力の営みと叡知――それらによってわたしたちは「生かされている」のです。したがって、私たちの生が維持されていること自体に感謝する必要があります。

 「ふりをする」から始めてもよい  [TOP]

 Bの「愚痴をこぼさない」ということですが、これはAと反対で、愚痴をこぼせば、そこにまつわる否定的な感情や負性の心のありようが波動となって発せられ、結局、次も愚痴をこぼしたくなるような事態を招いてしまうことになる。ああ困った、いやだなあ、できっこない、ムダだ、苦しい、面倒くさい‥‥こういう感情が困ったことやいやなこと、苦しいこと、面倒くさいことを呼び寄せるのです。
 悲しいから涙を流す。わたしたちは簡単にそう思いこんでいますが、これは実は逆の面が強い。つまり、悲しいから泣くのでなく、泣くから悲しくなるのです。人から腹の立つことをいわれたときに、黙って受け流せばなんということもないのに、ひと言「なにを!」と買い言葉を発してしまうと、怒りの火に油を注ぐ結果になる。
 愚痴を避ける、愚痴を抑える心がけを日常の中で行なうことが肝心です。

 また、こうした正しい心の使い方をしたくとも、なかなかうまくいかない場合には、「そのふりをする」ことから始めてみるのも効果があります。
 たとえば、あまり感謝する気持ちがわかないときでも、演技や口先だけでもいいから「ああ、ありがたい。感謝します」などと、少し大げさでもいいからニコニコ笑いながらいってみるのです。他人に親切にする気が起こらない場合でも、あえて「小さな親切」を実際に行為に移してみるといい。
 こうして演技をくり返すうちに、しだいにそれが癖や習慣化してくる。そういう傾向や素地が心の中に形成されていき、やがてそれが本質となっていくからです。「かのごとく」振る舞ううちに性格や行動もそれらしく変わり、だんだん心の波長がそのふりに同調して、よい波長に合うような出来事が起こるようになってくるものだからです。
 金持ちになりたければ金持ちのつもりで振る舞う。実力があるのにいまひとつ伸びないでいる人なら、自信たっぷりに行動してみる。こういう演技の効果は私たちが考えている以上に大きいものです。

 このあと「第3章 呼吸法で全身細胞がよみがえる」がこの著者の真骨頂ともいえるものですが、見出しでおおよその内容はご理解いただけると思いますので、ここではそのご紹介にとどめておきます。(なわ・ふみひと)

 自分の「内部情報」に耳を傾けよ  [TOP]

 たとえば、わたしたちの口や歯の形。人間の口と歯の形を見れば、人間が肉食に適した生物でないことは明らかです。口の形状、歯の形とも、ライオンとかオオカミなどの肉食獣のようにはとがっていない。
 人間の口は平たく、歯も奥歯は臼の形に平たくなっています。食物を前歯でちぎり、奥歯でかみ、すりつぶすように設計されている。これはつまり穀物や野菜を中心にした草食動物に近い食事が人間にもっとも適していることの証拠なのです。人間にも犬歯がありますが、あれは肉食獣のとは違って、「糸切り歯」といわれるように、糸を切る程度にとがっているだけの「やさしい歯」です。
 肉食が人間に適していない、したがって肉などの動物性タンパク質の摂取が人間の健康にとってそもそも無理があることは、この一事をもってしても明確といえます。

 さらに人間の腸(小腸)は体長に比してひじょうに長くできています。これも人間が草食動物であることの一つの証です。つまり、野菜などの繊維質の消化、吸収には時間がかかるので、長い時間をかけてじっくり栄養分を吸収できるよう、草食動物の腸は長くつくられてきたのです。
 肉をはじめとする動物性タンパク質は、腸に長時間滞在すると腐敗して、プトマインという毒素を出す。これは体を酸化させ、免疫力を落とします。つまり長い腸に肉は毒であり、その弊害は体の健康だけでなく精神状態にも作用します。肉食動物の性格が荒々しく攻撃的なのはそのせいもあるのです。逆に草食動物はゾウでも馬でも、体は大きくても性格は穏やかでやさしい動物です。
 腸の長さからも、人間が本来口にすべき食物がおのずとわかるのです。草食や菜食がもたらすのは、いってみれば静的で持続的なエネルギーで、肉食の「腕力が強くなる」ような筋肉的、瞬発的なエネルギーとは異なります。
 それは持久力、免疫力をじっくり形成するもので、人間の長期的な健康にとってはそのほうがはるかに有効なのです

 霊との交流で見えない世界の実在を知る  [TOP]

 見えない世界の実在を感じる、信じる――こういう言葉を使うのが適当かどうかわかりませんが、目に見えない「霊魂」の世界やそのパワーの存在を、わたしは小さいときからごく自然に確信していました。
 この世には不可知なものが存在する、いや、この世以外の世界が存在する。それはわれわれの目に見えたり、認識できる世界よりもはるかに広く大きく深い。またそうした不可知な世界は、わたしたちに知覚できるあらゆる可知なものの根源であり、万物に影響を与え、それらを統括してもいる‥‥。
 そんなふうに整理された考えではなかったけれども、見えない世界の存在をなんの抵抗もなく信じていたし、感じていたのです。そうした資質というか心の傾向がわたしは強かったのでしょう。しかし当時は、それもいまほどめずらしいことではなかった。目に見えるものだけがすべてではない。そのことをごく自然に信じている人はいま以上に多かったのです。
 だからというわけではありませんが、わたしは渋谷に医院を開業したころから戦後にかけて霊魂の世界に興味をもち、数々の霊との交流を行なった経験があります。
 人間は死ねば肉体は消えるが、魂は目に見えない世界へ移って、そこで生きつづける。その霊性の次元はしだいに向上していくが、まださほど高いレベルに達していない霊がその意思をこの世の人間に伝えようとする。その仲介者として選ばれるのがいわゆる霊媒や霊媒的体質をもった人で、霊視や霊感、霊聴といった方法によりさまざまな意思が伝達されます。したがって、

・人は死んでも、霊魂は霊界で生きつづける。したがって人間に完全消滅としての死はない。

・人間と霊界との間には交流が生まれる。

 ということがわかりました。私も当時、多くの霊たちと交流し、さまざまな現象や教えを霊界から伝達された経験があります。たとえば交霊のときにかならず現れて、魂の糧(かて)になる有益な話をたくさん聞かせてくれたひとりの霊がいました。私たちは親しみをこめて「大峯さん」と呼んでいましたが、大峰山で役行者(えんのぎょうじゃ)のもとで修行し、生きたまま昇天した仙人、つまり屍解仙(しげせん)です。
 大峯さんの話は含蓄に富み、しかもそれを人間味あふれる洒脱な口調で語ってくれるので聞くたびに感銘を受けたものです。彼は侍の家に生まれたが、剣を持ってもダメ、書を読んでもダメ。意気地なしで何をやってもものにならなかったので、意を決して役行者弟子になり、修行を積んだ。
 その体験から得た深い真理を「ダメじゃと思う心をこそ捨てるんじゃ」とか「どんなに世の中が変わっても人間は変わらんぞ」といった簡潔な言葉で伝えてくれたものです。人間の罪過の深さを説き、それを償う大きなみそぎがやがて必要になることを、最初にわたしに教えてくれたのも、この大峯さんでした。
 ただ、こういう話に拒絶反応を示す人がいるのは知っていますし、わたしもずっと以前に交霊行為はやめています。理由を簡単にいうと、霊との交流は霊と人間の間で直接行なうべきもので、霊媒という第三者を介すべきではない。どんな霊媒にも自我や潜在意識があり、それが霊との純粋な交流をさまたげるとわかったからです。

 大事なもの、求めているものは必ず実現する  [TOP]

 祈りや願いや意思は「かなえられた」という精神の受け皿、心の磁場を用意することで、そうなりやすくなる。宇宙無限力がそこに作用し、幽子レベルにおいてそれを形成するからです。求めかつ信ずる心が実現を引き寄せるのです。
 この世にあるものはすべて意味があり、価値があり、理由があるから存在しています。それが必要であり大事なものだから「ある」のであり、求めていないもの、不要なもの、大事でないものはそもそも存在しません。地上に不要なものは何ひとつない、意味のないものは毛一本ほどもないのです。
 このことをわたしは宇宙無限力の存在を知ってからいっそう強く確信するようになりました。宇宙の意思が万物をそうつくっているのです。宇宙の深遠なる意思はこの世にムダなものなどいっさいつくりません。意味や価値や理由のあるものしかこの世にもたらさない。それが宇宙の意思であり法則だからです。
 聖人君子から殺人犯まで、ゴキブリからガンまで、すべて必要だから存在している。子供が生まれ、親が死ぬ、どちらもそうなる理由のある必然の出来事なのです。
 それがわたしたちの目にどう見えようと、心でれをどう感じようと、森羅万象この世にムダなものはなく、必要なものだけがあり、また必要なことだけが起こるのです。

 因果律の大きなサイクルにそって生きよ  [TOP]

 この世にムダはありません。すべてあるべくしてあり、なるべくしてなり、起こるべくして起こる――それが宇宙の意思にもとづく必然の理(ことわり)だからです。
 物事に失敗した、しくじった。だがそれも理由のないことではありません。その失敗は次の善因となるのです。いまの失敗が次の成功を呼び込む因となるのです。
 飛行機に乗り損なったために商談が成立しなかった、しまったと悔やんでいたところ、その飛行機が墜落したということもあります。むろんこの逆、成功が失敗の原因となることもいっぱいあります。
 悪いことがよいことにつながり、善が悪に通じていく――すべてが因であり、果であり、それがまた次の因になっていく。過去は現在の原因であり、現在の結果が未来の因となっていく。この因果律の無限のサイクルの中に、わたしたち人間をふくめた森羅万象は存在しているのです。
 ただし、すべてが因果律のもとにあるなら、単純にいって善悪や苦楽は半分ずつ起こらなくてはなりません。しかし、世の中はまことに不公平です。
 「まじめにはたらき、世のため人のために尽くしている人が、いっこうにうだつがあがらない。不運続きのままみじめな一生を終わることもある」
 「いっぽう、悪いことをしほうだいしているにもかかわらず富み栄え、安楽にあの世へ旅立つ人もいる。まったくでたらめだ、この世には神も仏もないのか」
 こういうことはよくあることで、なるほど悪因悪果、善因善果とはなっていません。しかしそれは現世だけを見た近視眼的な考え方で、来世まで視野を広げればちゃんと因果の帳尻は合わさせています。因果は応報し、来世においては、よいことをした人はよい結果が、悪いことをした人には悪い結果がきちんともたらされています。おのれから出たものはすべておのれに返ってきているのです。
 私は仏教的な悟りを口にしているのではありません。こうした因果律を知ることで、ふだんの心の持ち方をずいぶんと変えることができるし、正しい心の使い方の実現に応用することができるのです。
 すなわち大きな因果律のバイオリズムの中にすべてがあると考えれば、幸も不幸も必然として受け止められるようになり、前向きな心も感謝の念も自然にわいてくるようになるでしょう。日々、よい因をつくるように努めることはよい果を生むことに通じる。それを知って生きれば自然にプラス思考を手に入れることができるでしょう。
 
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