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「死ぬ瞬間」と死後の生 
E・キュープラー・ロス 鈴木晶訳
 中央公論新社
 
  苦しむことの意味

 死の床にある患者たちは、あなたがじっくりと腰をすえて耳をかたむければ、人間はどんな段階を経て死んでゆくかについて教えてくれます。自分はじきに死ぬのだと知ったとき、誰でもまずそれを否認しようとし、怒り、「どうしてこの私でなくちゃならないんだ」と憤り、神に疑いを抱き、しばし神を否定します。神と取り引きしようとしたり、ひどい鬱状態に陥ったりもします。
 死が間近に迫った人間にとって、希望は何を意味するでしょう。回復不能の病気にかかっていると告げられたら、まず「そんなばかな。何かの間違いだ」と思うでしょう。次いで、きっと薬か手術で治るだろうという希望を抱きます。その見込みがないことがわかると、今度は、化学療法とか器官切開とかで症状が軽くなるのではないか、少しは体調が良くなるのではないかと期待します。でもやがて、どんな実験的な薬を飲んでも良くなるのは束の間にすぎず、良くなったり悪くなったりの繰り返しであることがわかります。上がったり下がったりというわけです。あきらめてしまったほうがいいのでしょうか。いいえ、そんなことは絶対にありません。あきらめても、何ひとついいことはありません。どんなに上がったり下がったりしようと、どんな人間のどんな経験にも、かならず意味があります。どんな経験も、ほかではけっして学べないことを教えてくれます。
神様は人間に、必要以上の試練をあたえたりしません。
 ひとつ試練を乗り越えると、しばらくはとても調子がいい。でもじきにまた新しいことが起きる。目が見えなくなる、下痢を繰り返す、そのほか何らかの症状が再発する。そうなると誰だって、そうした症状の裏に何があるのかがわかってきます。そこで、闘う意欲のある人は闘い、さっさとあきらめる人はあきらめる。でも、あきらめても問題は解決しません。もしその問題の背後に、何か学びうるものを発見できれば……。
 あるいは、誰かがそばにいてくれれば、受け入れるという段階に到達できるでしょう。
 これは死に特有の問題ではありません。じつのところ、死とは直接には関係がありません。「死に至る諸段階」という言い方をするのは、ほかにもっといい言い方がないからです。ボーイフレンドやガールフレンドと別れたとか、失業したとか、五十年間住み慣れた家から離れて老人ホームに入るとか、いやもっと身近に、飼っていた小鳥に逃げられたりコンタクトレンズをなくしたときにも、死ぬときと同じ段階を経るものです。
 それが苦しみの意味です。人が人生で直面するありとあらゆる困難、試練、苦難、悪夢、喪失などを、多くの人はいまだに呪いだとか神の下した罰だとか、何か否定的なものと考えています。でも、
ほんとうは自分の身に起こることで否定的なことはひとつもありません。本当です。どうしてみんなはそれに気がつかないのでしょう。あなたが経験する試練、苦難、喪失など、あなたが「もしこれほどの苦しみだと知っていたら、とても生きる気にはなれなかっただろう」と言うようなことはすべて、あなたへの贈り物なのです。それはちょうど……(聴衆のほうを見て)熱い鉄から刃物をつくるとき、何が必要ですか。鍛えることですね。
 
すべての苦難は、あなたにあたえられた成長のための機会です。成長こそ、地球というこの惑星に生きることの唯一の目的です。あなたが美しい庭にすわっているだけで、銀の皿にのった豪華な食事を誰かが運んできてくれるのだとしたら、あなたは成長しないでしょう。でも、もし病気だったり、どこかが痛かったり、喪失を体験したりしたときに、それに立ち向かえば、あなたはかならず成長するでしょう。痛みを、呪いとか罰としてではなく、とても特別な目的をもった贈り物として受け入れることが大切です。
 
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