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 出口王仁三郎の神の活哲学
十和田龍・著 お茶の水書房 1993年刊
 
 
 艮(うしとら)の金神は「このままでいくと世界の大峠がきて、人民が三分になるぞよ」と警告した。第一次、第二次世界大戦で、人類はいくつかの峠を越えたが、まだ地球を傾けるほどの「大峠」は越えていない。早く人類が意識を変革せぬ限り、それはくる。

  出口直に憑る艮の金神は三千世界の立て替え立て直しを叫び、人民が改心せねば「三分になるぞよ」と予言する。その「立て替え立て直し」も、ある質的大変換が引き金になるであろう。

  そして「最後の審判は、閻魔大王が罪人を審くと同様なる形式において行なわるる」と考えている人が多いようだが、それは違う。天国に入り得る者と、地獄に陥落する者との標準を示されることである。この標準を示されて後、各自はその自由意志によって自ら選んで天国に入り、あるいは自ら進んで地獄におつる。そは各自の意志想念のいかんによるのである。

  これからも人類の生み出した邪気を清めるために大天災大地災はあるかもしれないし、第三次世界大戦がないともいえない。それが人類の越えねばならない大峠だとすれば、すでに峠越えは始まっている。しかし、王仁三郎はその峠の先に人類の明るい未来を見る。立て替え立て直しとは世界全体のことばかりではなく、実は自分自身の問題でもある。

  この世に存在する限り、一つとして不要のものはないという。

  愛のない人間はいない。たとえば強盗殺人を犯したひどい人間がいたとする。その犯行の動機をつきつめれば、それは愛の情動になる。罪もない相手を殺して奪ってまで自分に与えたい。それほど純粋に激しく自分を愛していることになるから。

  愛は同じでも、意志によって向けられる対象が問題だ。

  王仁三郎は「愛は人間生命の本体だ」という。人間にこの愛の情動があるから、生命に熱がある。意志をどう方向づけるかはともかくとして、人間に愛の情動がなければ、現世では生きていけない。この宇宙は神の意志によって創造されたから、すべての事象の根元には愛の情動があり、それによって意志が生まれ、それが想念を形成する。そしてその想念が物質世界をつくる原動力となる。

  愛の対象が自分に向かえば向かうほど、その愛は愛悪だ。つまり自己愛である。反対に、愛の対象が家族に、町に、国に、全人類にと、外に向かえば向かうほど、その愛は愛善である。神の愛の対象は、人類ばかりか、動植物にも、鉱物にも、人類万類に及ぶ。

  王仁三郎は善悪一如、善悪不離を説き、「悪の中にも善があり、善の中にも悪があり、善悪美醜混交しているのが世の中だ」(『道の大原』二章)という。

  人間は誰でも霊能(霊的性能)と体能(体的性能)という二つの相反する性能を具備している。霊能とは、向上、正義、純潔、高雅、博愛、犠牲などという、最高の倫理的、審美的感情の源泉であり、体能とは、呑みたい、食いたい、着たい、寝たい、犯したいなどの欲望を起こさせ、果ては人間をして堕落、放縦、排他、利己などの非道徳的行為に導く。

  霊能がなければ他の動物と変わりなく、人間としての価値を失う。人間を人間たらしめているのが霊能だ。だが、体能がなければ自己保存もおぼつかなくなり、一カ月を経ぬ間に、人間はこの地上から滅び去るであろう。

  人間が幅広い自由意志を持つとは、善人はなお善人に、また悪人はなお悪人になるのも自由、逆に善人に立ち返ることも自由ということだ。だから人間は、生まれながらにして創造的、自律的に悪を行なう自由を内包している。

  悪のできない人間を造ったとしても、それは神の代行者としての自由の資格を失った動物に過ぎぬ。

  もともと悪を行なえないように造られた人間が善をしたとしても、それは単に本能的善、機能的善であって、はたして善の名に価するかどうか。

  自分の自由意志で悪への誘いをはねのけ、あるいは悪の泥沼からはい上がって善をなしとげてこそ、その喜びは大きいのだ。

  今の世は、悪いことをしても世間をごまかし表を飾れば、立身出世もできるし、大儲けもできる。正直でくそまじめなばかりに虐げられ、苦しめられ、悲惨な境遇に泣く人がたくさんある。それは悪魔が君臨する世だからだ。

  これからは、もうこんな不合理は許されない。善いことをすればどんどん善くなり、悪いことをすれば片端から打ち砕かれ、悪の思惑の一つもたたぬようになる。それがみろくの世である。

  善悪は時所位によって異なる。最低限の善悪の基準がほしい。それは何か。

  「善は天下公共のために処し、悪は一人の私有に所す」(『霊界物語』)

  霊主体従の身魂は、「いっさい天地の律法にかなった行動を好んで遂行しようとし、常に天下公共のために心身をささげ、犠牲的行動をもって本懐となし、至真、至善、至直の大精神を発揮して救世の神業に奉仕する、神や人の身魂」(『霊界物語』)であり、一方、体主霊従の身魂は、「私利私欲にふけり、天地の神明を畏れず、体欲を重んじ、衣食住にのみ心をわずらわし、利によって集まり、利によって散じ、その行動は常に正鵠を欠き、利己主義を強調するほか一片の義務もわきまえず、慈悲を知らず、心はあたかも豹狼(さいろう)のような不善の人」(『霊界物語』)をいう。

  大本は日本の型、日本は世界の型であると、王仁三郎は教えた。つまり、日本で起こることはまず大本の中にその雛型がつくられると。

  第二次大本事件は1935年12月8に始まり、1945年9月8日の大審院判決で終わる。太平洋戦争は1941年12月8日に始まり、1951年9月8日のサンフランシスコ講和条約締結で終わる。ともに9年9カ月。

 
 
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