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虚ろな日本に
「いのち」を吹き込む教育力
 
丸山敏秋・著  風雲舎
 
 
 たかがあいさつ、されど……

 過日、元NHKのアナウンサーで、現在は熊本県立劇場の館長をつとめながら、村おこしやボランティア活動に全力投球している鈴木健二と対談をする機会を得た。ブラウン管でおなじみの鈴木は、いかにも飾り気がなく、快活なエネルギーにあふれているが、「実物」もまさにその通りであった。熊本に移ってからの献身的な働きぶりは、県民から多大な尊敬を集め、人望を得ていることが現地に行くとよくわかる。
 その鈴木健二が昭和57(1982)年に出版した『気くばりのすすめ』(講談社)は、1年後に三百万部を突破する驚異のミリオンセラーとなった。鈴木が経験した隅田川のほとりの下町の生活倫理を底流に、気づいたことを書いたというこの本が、あれほどまでの読者を獲得したのは、鈴木自身の知名度もさることながら、人々に忘れられかけている「あたりまえのこと」を気づかせてくれたからだ。さりげない心の優しさや、人間としてのあたりまえの行動を『気くばりのすすめ』が甦らせてくれた功績は大きい。
 鈴木と対談するために、あらためて15年前の『気くばりのすすめ』を読み直してみたが、今日でも新鮮な感動を味わうことができる。たとえば、あいさつを交わすことの大切さが、じつにわかりやすく書かれているのだ。鈴木は近著の中でこう述べている。

 
私がほとんどの愚著で強調する挨拶の「挨」は「開く」、「拶」は「迫る」の意味であり、心を開いて相手に近づいていくところからすべての人間関係がはじまる、と『気くばりのすすめ』の中でも書くと、はじめて挨拶の意味を知ったという手紙が山となり、全国各地に挨拶道路が生まれてきた。
 夜の白みかけから、おはようの挨拶の声が、まだ蒲団の中で寝ている子どもであった私の耳に明るく響いてくる風景から下町の一日がはじまるのが、界隈の自然な習慣であったので、私にとってはきわめて当たり前な話であるのに、単にそれを数行書いただけで反響があるのに驚いてしまった。当たり前なことが当たり前におこなわれなくなった世の中になっていたのである。
  (『気くばりのすすめ十五年目』講談社)

 物質的にはあれだけ貧しいインドでも、ヒンズー語で「ナマステ」(「あなたを信じます」の意)と言って手を合わせる朝のあいさつだけはちゃんと行なわれていることに感激した文章が『気くばりのすすめ』のなかに見える。筆者のアフリカ体験では、東アフリカのタンザニアにはじめて行ったとき、道で会う人々が片手を上げて「ジャンボ(こんにちは、という意味のスワヒリ語)」と気軽にあいさつをかわす姿を見て感動した。もちろん知り合い同士だけではない。見ず知らずの外国人旅行者にまで、ニッコリほほえんで「ジャンボ」が送られてくる。日本ではどうか。見知らぬ人にあいさつの声を投げかけるのは、せいぜい登山ですれ違う人にだけではなかろうか。

 人間関係の第一歩、それはあいさつである。

 ノーベル賞を受賞した動物行動学者、コンラット・ローレンツの報告によると、どうやらあいさつは人間関係の第一歩だけでなく、他の動物との間にもいえるようだ。有名なハイイロガンの話がある。ローレンツが飼育していたハイイロガンの雛が孵化したとき、その雛たちに母鳥よりも先にローレンツがあいさつの言葉を投げかけたばかりに、雛たちはローレンツを母親と認識して、どこに行くのでも後をついてくるようになった。『ソロモンの指環』(早川書房)というローレンツの著書にそのときの状況が感動的に描かれている。これは動物の「刷り込み」現象といわれるものだが、人間にも「三つ子の魂百まで」といわれるように、似たような現象は数多くある。幼い頃からよい生活習慣を身につけることがいかに大切か、だからしつけの善し悪しが問われるのである。あいさつがしつけの第一歩であることはいうまでもない。
 熊本県水俣市で建設業を営む澤井正は、筆者の知る経営者の一人だが、彼のあいさつにまつわる話が熊本日々新聞社発行の『心にしみるいい話』に取り上げられているので紹介しよう。

 
私は朝の挨拶と、夫の誓いを仏前で読むことによって妻に感謝できるようになった。
 たかが挨拶、されど挨拶という。私はある講師から「奥さんに“おはよう”と挨拶していますか?」と聞かれたことがある。「夫婦円満の秘訣は、朝の挨拶と“ハイ!”の返事ですよ。明日から“おはよう”と言いなさい」と言われたことがある。しかし、九州男児は物を言わない。三年に一回笑えばよい、と教育されて来た私に、どうして男性の方から女性に向かって「おはよう」と言えようか。
 私は悩んだ。朝起きて台所の後ろに立って、妻に「おはよう」と言おうとするが、のどが詰まって声が出ない。一週間過ぎたが、どうしてもできない。
 私は一策を案じた。まだ暗い朝早く起きて、妻の枕元に坐り、声を出さずに口の中でモグモグ、「おはよう」と頭を下げるくらいならできるのではないか……。私はある日、それを実行した。暗い朝、妻の枕元に正座した。そして深々と頭を下げた。小さな聞こえるか聞こえないかの声で「おはよう」と言ってもみた。するとできたのだ。何回も何回も繰り返してみた。次の日も同じようにやった。一週間が過ぎた。すると不思議にも、スムーズに妻に向かって朝の「おはよう」が言えたのだ。それから抵抗なしに毎朝、男性の私から言うようになった。妻も夫から先に言われたら返事をせねばならない。おそるおそる「おはよう」が返ってくるようになった。
 夫婦は鏡だと言う。自分が変われば相手も変わる。朝がよければ一日気持ちがよい。それまで「フロ、メシ、ネル」の三つしか一日に言わなかった私が、その日の出来事を夕食時に話すようになった。夫婦の会話が生まれたのだ。
 しかし敵もさるものである。あれから三年ほど過ぎたある日、妻は私にこう言った。「私はあなたが私の枕元に座って“おはよう”と言ったのを、片目を薄く開けて見ていたのよ。知っていたのよ」。女性の怖さ、油断できないことを知らされたのはこの時である。男性はすぐ白状する。しかし、女性は三年間も心のうちに秘めることができるのだ、ということを。
 それから、強情な妻が素直になった。「ハイハイ」と返事をするようになった。私は私で、妻に話をするようになった。妻の話をウンウンと言ってよく聞くようになった。(以下略)

 澤井の夫婦仲がよいことは、人も羨むほどである。かつての横暴な(?)九州男児の姿が信じられないほどだ。その変身のきっかけが、夫人への朝のあいさつだったというのである。

 ★なわ・ふみひとのコメント★
 
あいさつの効用を述べた本は山ほどあります。この本の内容もそれほど珍しいものではありません。あいさつの大切さを知らない人はいないでしょう。ところが、そんな当たり前のことが日本の社会から失われつつあることが問題なのです。
 あいさつは 大きな声で 自分から 相手の目を見て にっこりと ── これは30年ほど前に私が作った標語で、私の勤務先で披露し、その後も自らも実践している内容です。このようなあいさつは職場や家庭の中では実践できても、町中で出会う見知らぬ人に対してする場合は勇気が必要な世の中になってきました。こちらがあいさつしても全く反応しない(できない?)人が多いからです。子どもの頃に周りの人からあいさつをされることが少ない環境で育ったため、あいさつ慣れしていないのでしょう。それでも、そんな日本の現状を嘆くのでなく、「自分から」あいさつする習慣は続けていきたいと思います。

 
 
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