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 幕末名医の食養学
いま甦る「石塚左玄」の粗食健康法 
沼田勇・著  光文社文庫
 
 
 少食のすすめ

 栄養学者が金科玉条としている「栄養価値の高いものを楽しく食べる」ということの中には、恐るべき落とし穴があります。
 働きて食へばたのしも貧しかる
     夕餉の膳に言うこともなし(新万葉)
 Hunger is the best sauce(空腹にまずいものなし)
 「腹八分医者いらず」は、誰もが知っていることわざです。
 最近、アメリカの栄養学者は、「腹六分にすればガンは十分の一に減る」とさえいっているそうです。
 アメリカ人は日本人より1000キロカロリーも多く食べていますから、アメリカ人の腹六分は日本人の腹八分に相当する、と考えていいでしょう。
 時間がきたから食べ、喉が乾いていないのに飲み、むやみと味や色、匂いをつけたものを好奇心から食べることほど愚かなことはありません。少食が健康上大切なことを示すことわざや言葉は、洋の東西を問わず沢山あります。

 三食の中の二食は自分のため、他の一食は医師のため
 なるべく簡単に、なるべく少なく食べよ               (ソクラテス)

 僧侶、隠者の長寿はみな少食による                (ベーコン)

 私の同僚たちの中で、元気でたくましく、大いに飲み、大いに食べた者の大半は、平均寿命を超えるはるか前に他界しました。彼らの「太く短い人生」が、多食多飲の結果だったことは明らかです。
 ここで石塚左玄の教えを、改めて噛みしめたいものです。左玄が説いた人間主体の栄養論は、東洋的、総合的、哲学的で、それはまさに「食養道」とも名づけられるべきものです。
 事実、左玄は「食養道」という言葉を好んで使いました。もっとも、「過ぎたるは及ばざるが如し」で、『養生訓』で名高い貝原益軒(1630−1714)は、「飲食節に過ぎれば脾胃を損なう」と、いたずらな節食と少食を戒めています。少食については甲田光雄博士の詳しい研究があります。

 
実例が語ること

 石塚左玄以降の栄養学者で、少食論や少蛋白論を説いた人にチッテンデン(アメリカのエール大学生理学教授)のほか、デンマークのヒンド・ヘーデ教授と日本の二木謙三先生(文化勲章受賞者、東大教授)がいます。デンマークは1909年(明治42年)、ヒンド・ヘーデのために国立栄養研究所を新設しました。
 農村出身のヘーデは医科大学に入ったとき、健康を保つには肉を食べなければならないと教わり、大いに肉食に励みました。しかし、講義の内容と実際との間には大きなギャップがあり、彼は体調を崩し、頭の冴えもなくなったので、肉を減らしたところ体調はよくなりました。そこで肉食をやめたら、さらに体調はよくなったのです。3週間、2カ月、3カ月を過ぎても栄養不良の徴候は出ないどころか、かえって体質は改善され、心身ともに爽快になりました。
 50歳のときヘーデは、体重67キロを保つのに蛋白20グラムあれば足りるとし、蛋白118グラムは必要だとするフォイト教授の標準食とは大きな相違を示しました。第一次世界大戦(1914−1918)中、デンマークはヘーデの学説によって食糧を用意し、終戦まで1人の栄養失調者も出しませんでした。
 一方、ドイツは、フォイトの弟子のルブナーの指導で食糧を用意しましたが、戦争の後半では栄養不良者や餓死者を出し、国土に敵を一歩も入れなかったにもかかわらず戦いに敗れたため、「ドイツを敗北させしめたのはカイゼルではなく、献立を誤ったルブナーである」と、非難されたものです。
 大戦に参加したアメリカも、食糧不安を感じ、作戦上、不都合が生じ、食糧担当の政府顧問だった栄養学者のベネディクトは、チッテンデン教授を非難しました。が、大規模な実験の結果、同教授の説の正しいことを知り、論文をもって陳謝したのでした。二木謙三先生は玄米、菜食の少食論者でした。最初、二食論を唱え、それを実行後、体重は落ちましたが、半年ほどで元に戻り、体調もよくなられたので、一食を試みました。80歳を過ぎてからのことで、とても健康になられたのです。
 私も時折り、二本先生のお供をしましたが、食事になると先生は一人分しか注文せず、その四分の一を皿に取り、残りを私によこされるのです。そのため、随分とひもじい思いをしましたが、それも楽しい思い出になっています。
 
 
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