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 日本の復元力
 歴史を学ぶことは未来をつくること
 中谷巌・著  ダイヤモンド社
 
 自然への畏怖心を克服した「近代合理主義」

 ‥‥西洋近代合理主義精神の祖と言われているデカルトが言ったのは概略、次のようなことであった。
 自然は恐れるに足りない。自然は機械と同じである。機械には人間との相互の意思疎通などあり得ないし精神的な意味での交流もない。人間が働きかけても彼らは何も返答しない。あるいは、それらがわれわれに何か働きかけてくることもない。その限りで、完全にわれわれが「主」であり、自然は「客」である……。
 デカルトは主客合一どころか、人間と自然を完全に分離して、人間は自然を機械と見なして、道具としてそれを利用すればよい、と断言したのである。
 デカルトの先輩格に当たるフランシス・ベーコンも「自然は物質にすぎないのだから、人間の都合のいいように料理してよいし、征服すべき対象だ」と言っている。これがフランシス・ベーコンの「自然征服論」である。
 これらは日本人の自然観とはまるで違う。日本人の自然観は、あたかも自然が生き物のごとく、人間と意思疎通をする存在と考える傾向がある。たとえば『源氏物語』を読むと、しきりに「怨霊」が出てくる。「向こう側の世界」と「こちら側の世:界」が密接に感応し合って、そこに恐れや喜怒哀楽が生まれる『源氏物語』の世界。それは紫式部の想像の産物ではなく、当時としてはまことにリアルな現実であった。
 自然界と人間界の交流については、日本には極めて豊かな文化的蓄積がある。たとえば、柳田国男『遠野物語』に出てくる話のほとんどは自然界と人間界の交流を描いたものであるし、泉鏡花『夜叉ヶ池』『天守物語』などの戯曲は、醜い人間世界とおどろおどろしくも妖艶で、心美しい妖怪たちの交流を描いた傑作である。
  ところが、西洋近代合理主義の立場に立つ側に言わせると、「怨霊のごときものは迷信にすぎない。そんなのはナンセンスだ。科学的に説明できないものはすべて無視してよい」の一言で片付けられてしまう。それは自然との関係も同じで、「自然の中に神様がいる」などと言うと、「とんでもない。自然は単なる物質だ」と、頭から否定されてしまう。その底流には、旧約聖書にあるスチュワードシップの思想があったことは間違いない。
 しかし、17世紀、ベーコンやデカルトが近代合理主義哲学を打ち立てるまでの人間は、洋の東西を問わず、誰もが自然に対する恐怖心を持っていた。雷が落ちたり、日食があったり、突然大嵐が吹き荒れたりする自然。人間の想像をはるかに超えたもの、数々の奇跡的な自然現象や豊穣の恵みを見せる自然。そういう自然にうかつに手を加えたりしたらとんでもないしっぺ返しがある……自然にも生命があり、魂があると考えていたわけだ。
 ところがヘレニズムを手に入れた西洋人は、ベーコン、デカルトによる近代合理主義哲学の成立によって、自然に対する畏怖心を克服し、自然は大したことない、恐れるに足らない、人間の都合によってどのように料理してもいい、と考えるようになった。これによって自然に対するコンプレックスが西洋人から消えてなくなったのである。これが西洋の近代科学革命を成立させる最大の要因になった。自然が恐怖の対象であったなら、自然を徹底的に切り刻んで分析するという恐ろしい真似はとうていできなかったであろう。しかし、それが単なる物質であるにすぎないのであれば、どのように切り刻むこともできる。
 その意味で、ヘブライズムとヘレニズムの融合の結果として出てきたと考えられるデカルトやベーコンの近代合理主義哲学。それがもたらした近代科学革命がその後に世界に与えたインパクトは、とてつもなく大きなものであったと言えよう。

 
「近代合理主義哲学」がもたらしたもの

 すでに述べたように、西洋を世界の支配者に仕立て上げたのはヘブライズムとヘレニズムの融合によって誕生した近代合理主義哲学である。これによって西洋の人たちは自然を物質と見なすことができ、その結果、地球上のあらゆる自然資源を活用することで人間の生活水準を大幅に引き上げることができた。これが1492年のコロンブスのアメリカ大陸発見という歴史的事件と合わさって、西洋世界が非西洋世界を支配する歴史の底流になったのである。
 とりわけ、20世紀に入ってからの科学技術の発達、生産性の向上ぶりは右肩上がりという言葉では足りないくらい急激なものであった。物質的な豊かさに限って言えば、「地上の天国」は(先進国に限って言えば)すでに実現したかのようでもある。それと言うのもほかでもない。それまで自然の怒りに触れてはいけないと恐れてきた人間が、自然をわがもの顔で利用(搾取)することが平気でできるようになったからである。清浄な空気や水、美しい自然など、環境コストを負担せずに好きなだけ利用する。つまり、現代社会の物質的豊かさは人間の自然に対する搾取の結果なのである。この自然に対する畏怖心をなくしてしまった西洋が、自然崇拝を捨て切れない非西洋世界を、その巨大な工業力の前にひざまずかせたのは、これまた当然のことと言ってもいいかもしれない。
 すでに見たように、江戸時代の人々は、自然をなるべく破壊しないような、環境になるべく負荷をかけないような「循環型経済」の仕組みをつくり上げ、文化的に穏やかでゆったりとした文明世界をつくり上げていた。しかし、そのような穏やかな文明の力をもってしても、ペリーが引き連れてきた巨大な黒船に象徴される強力な工業力、それを可能にした西洋の「近代合理主義」にはとうてい太刀打ちできるものではなかった。自然への畏れを失い、自然界を徹底的に分析した結果生み出された西洋文明の力は、自然を愛でながら、自然と共存していこうとする日本的な価値観を圧倒したのであった。明治維新以降の日本人は、心に伝統的な自然観を潜ませながらも、そのような西洋文明に圧倒され、西洋合理主義精神を懸命に取り入れようとして、今日まで生き延びてきたのである。
 われわれは近代科学革命によって、物質的に豊かな生活を手に入れることができた。それについては、近代科学革命の功績として素直に認めざるを得ない。だが、いまや近代科学革命がもたらした功罪の「罪」の部分に目をつぶるわけにはいかなくなった。それが21世紀という時代の宿命である。その「罪」とは言うまでもなく自然破壊の問題であり、おそらくはそのことと密接に関係していると思われる「現代人の心の空白」の問題である。
 近代科学革命が起こった当初は、世界中が森に囲まれていたため、少々森を伐採したところで、これという問題は発生しなかった。人間による自然破壊は地球が持つ環境復元力、自浄能力の範囲内にとどまっていた。ところがその後、工業生産力が幾何級数的に広がり始めるにつれて、人口が急増し、その結果、エネルギー消費量、資源の消費など「自然の搾取」も急激な勢いで進み、地球自身が持つ環境復元力をはるかに超える自然破壊が常態化した。たとえば、二酸化炭素の排出量で見れば、現在、地球が持つ自浄能力の3倍程度の二酸化炭素が排出されているという。そしてその当然の結果として、21世紀に入ったいま、人類は地球環境問題で完全に行き詰まってしまった。つまり、これまで世界をリードしてきた西洋的な価値観、もっと言えばこれまで誰も疑わなかった西洋合理主義哲学の限界が明らかになってきたということに他ならない。
 近年、環境意識が世界的に高まってきたせいか、環境技術をよりいっそう高めなければならないといった発言ががあちこちから聞こえるようになった。アメリカのオバマ大統領をはじめとする各国首脳は「これからは環境を保護しなければならない」「これからは環境ニューディールで経済成長を図る」と語っている。しかし、彼らの発言はここまで述べてきたような近代合理主義哲学そのものの見直しにまで踏み込んだものではない。彼らは近代合理主義、その発展形態であると考えられるグローバル資本主義の枠組みそのものを根幹から問い直そうとか、人間と自然の主従関係を見直そうとか、そういうところまで深く考えているわけではない。あくまでこれまでと同じような「自然機械論」「自然征服論」に基づいて、言わば、「力ずくで」環境問題を克服するという姿勢を維持したままである。このような根幹にある自然観を改めることなしに、果たして地球環境問題は真の意味で解決できるのだろうか。
 筆者にはどう考えてもそれだけでは無理であるような気がする。なぜかと言えば、自然を人間の生活を向上させるために利用し、搾取するのが「進歩」なのだとする西洋的な価値観そのものに地球環境問題の根本的な原因があると考えられるからであり、人間の利己心の強烈さ(強欲)こそ、問題の核心だと考えるからである。
 ここがおそらく、西洋文明が陥っている一番大きな問題点であり、最も根本的なところであろう。西洋の価値観から生まれた経済発展の巨大な成果と、そこから出てきた環境破壊の問題。これをどう解決するのか。日本、そして世界の明日を担う若い人は、これからこの根本的な問題について、いやがおうでも向き合わなければならなくなるのではないだろうか。

 ★なわ・ふみひとのコメント★
 
東日本大震災の結果起こったと報道されている福島第一原発の事故はいまだに解決の目処も立っていませんが、これなどはまさに自然を切り刻んで科学を発達させてきた現人類への警鐘と見ることができます(原発事故そのものは、人工地震による津波が原因であるかのように装ったテロによる仕業だと確信していますが)。
 この事故を受けて反原発、脱原発の国民的合意形成が進んでいます。そのこと自体は好ましい動きではありますが、正直なところ、もう手遅れと言うべきでしょう。いまさら原発を止めても問題の根本的解決はできないのです。この間、国内の原子力発電所が作り出してきた大量の核廃棄物の処理は手つかずで、地中に埋める以外に有効な解決策が見いだせないまま未来の世代へ残されているからです。
 そういう意味では、原発事故は長年にわたってこの国が蓄積してきた負の遺産の大きさに気づかせる事件だったといえます。政府や東電だけが悪で、そこを叩けば問題が解決する――という単純な構図ではありません。国民全員が、未来の世代に大きなツケを残したことの連帯責任を負う形で、膨大な負のカルマの清算を迫られている、と受け止めるべきでしょう。終末の大峠が近づいていることを感じます。
 
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