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 日本への遺書
 生き残り特攻隊員が綴る慟哭の書
田形竹尾・著  日新報道
 
 真実は戦争の勝敗と関係ない

 部隊長出征訓示(要旨)

 大命ニヨリ、我ガ連隊ハ、戦闘二中隊天津、偵察二中隊上海二出動スル。

一、日本軍ガ戦ウハ、「蒋介石」ノ中国軍卜、「毛沢東」ノ共産軍デアル。中国民衆トハ、友好親善ヲ深メル努カヲ忘レテハナラナイ。

二、日本軍ハ、戦闘ガドノヨウニ困難ナ状況ニナッテモ、「人道」「国際法」ノ精神二基キ、中国国民、生命財産ヲ守ラネバナラナイ。

三、日本軍ハ、敵ノ軍隊、軍事施設以外ヲ、攻撃シテハナラナイ。

四、日本軍ハ、軍紀風紀ヲ厳格ニシテ、中国国民ノ生命財産ヲ守り、婦女子ヲ犯シテハナラナイ。

五、軍紀風紀ヲ厳格ニシテ、皇軍トシテノ日本軍の名誉ヲ守リ、軍紀風紀ヲ犯シタ者ハ、階級ノ如何ヲ問ワズ、軍法会議ニオイテ処罰スル。

  昭和一二年七月八日
  飛行第四連隊長 陸軍大佐 佐々木誠

 私が所属した「陸軍航空部隊」は、「支那事変」「大東亜戦争」ともに、この部隊長訓示の精神が守られて、「軍紀風紀」厳正で、原住民の信頼と協力の下に、作戦が展開された。「蒋介石軍」「毛沢東軍」「日本軍」と、困難な戦いにおいても、多くの中国人の協力の下に、作戦が進められた。
 ことに、「大東亜戦争」においては、「植民地解放の戦いである」と、東南アジア各地において、原住民の熱狂的な協力の下に、作戦が展開された。
 「支那事変」「大東亜戦争」において、米軍の日本本土爆撃の「無差別攻撃命令」と同じ非人道的な攻撃命令を受けたことは1回もない。
 私は、戦いに敗れても堂々と戦った日本の軍人の一人として、「誇りと喜び」と同時に、協力してくれたアジアの住民に対する感謝は、今も失っていない。
 私は、北支派遣3カ月めの昭和12年10月、北京市の「紫禁城」「萬寺山」などを見学した。
 「日支事変」の発端となった「盧溝橋」と、日本居留民が「凌辱殺戮」された「通州事件」があった通州は、北京の近くにあった。
 中国の蒋介石も日本と支那の紛争を望まず、「平和的な解決」に努力していた。
 この時、不幸な「盧溝橋事件」が起きた。
 それは、中国共産党員が国府に潜入、「日支を戦わせるための謀略」であったといわれている。
 戦後は「東京裁判」において、「先に発砲したのは日本軍である」と宣告され、これが中国の定説となり、日本軍の責任とされている。
 「真実は、戦争の勝敗と関係ない」ということを、私たちは忘れてはならないと思う。
 私は、昭和12年7月から12月まで、北京の南苑飛行場を基地として、「保定」「石家荘」 「大原」へと前進して、「北支派遣航空部隊」一の雛鷲であったが、学びつつ戦い、戦いつつ学び、壮烈な「北支航空作戦」に参加した。
 10月20日、西川大尉指揮、秀島軍曹と私の3機で、大原飛行場を爆撃する軽爆6機を掩護して、石家荘から大原まで、200キロ飛ぶことになった。9機編隊で、大原飛行場に侵入した。30門の高射砲の弾幕に包まれた。軽爆は、敵機と格納庫と大原駅を爆撃した。私たちは、軽爆を掩護しながら、上昇中のソ連製イ15戦闘機3機を攻撃すべく接敵した。私は、全身の力が抜けて、下腹に力が入らない。深呼吸を3回した。少し落ち着いてきた。これが、「武者震い」であった。敵機に一連射浴びせて落ち着いた。さすがに、西川大尉、秀島軍曹は今一歩のところまで敵機を追いつめたが、敵機は急反転急降下で退避した。敵飛行場上空での空中戦で、燃料が足りない。残念ながら、戦闘を中止して帰還飛行の途についた。
 初めて、高射砲の弾幕に包まれた。
 初めて、敵機に銃弾を発射した。
 これが、21歳の、田形竹尾の初空中戦であった。
 私は、昭和12年12月31日、下士官兵5名を指揮し、先発として、北支の北京から大連─門司、門司─上海─南京と、列車と船の旅で移動した。「南京陥落」1カ月の昭和13年1月23日朝、南京駅に到着した。
 迎えてくれた部隊の軍用トラックで市内を通り、「光華門」を通って、城外二キロの「大校場飛行場」に到着した。陥落1カ月の南京市内は、治安も維持され、市民も平和な生活をしていた。
 到着して中隊長に報告している時、蒋介石空軍の「ソ連製エスベー爆撃機」11機の攻撃を受けた。飛行場には、陸軍の戦闘機24機、「渡洋爆撃」で世界に有名となった「中攻双発爆撃機」40機が待機していた。海軍の中攻2機が炎上し、数機が被弾した。
 哨戒飛行中の、海軍の九六戦3機、九五戦3機が、エスベー爆撃機2機を撃墜した。その操縦者は、2機とも、ソ連の義勇兵であった。
 私は、6月まで、南京大校場飛行場を基地として、「南京防空」「除州作戦」「中支航空撃滅戦」に参加した。操縦新参の私も、出撃100回を越え、飛行時間も700時間を記録、空中戦も、前年の大原の初空戦から数回、体験した。実戦による訓練で、雛鷲から中堅操縦者へと、「心技体」が成長していった。
 同13年3月1日、私と藤永、柳田(戦死故准尉)の3名が、「航空兵曹長」に任官した。それは、中山陵の梅の花が満開となった、22歳の春であった。
 作戦の合間に、南京市内に何回も外出した。紫禁山の孫文の墓「中山陵」にも詣った。中山陵の桜見物にも行った。一人で外出しても、治安も良く、何の危険もなく、南京市民の温かい友情は今でも忘れていない。
 「東京裁判」で裁かれた、問題の「南京市民30万人人虐殺」と断罪された南京陥落当時の南京市民は、20万人であった。その南京で「市民30万人大虐殺」とは全く不思議な問題であると、「東京裁判」を私は見守っていた一人である。「東京裁判」で断罪されたような「残酷」な事件があれば、南京市民があのように私たちに協力し、温かく接してくれなかったろう。治安も保たれて、一人で外出しても何の危険も感じなかった。
 陥落と同時に、日本の新聞関係の従軍記者、従軍カメラマン、さらに、外国の新聞関係者など、100名以上が南京に入城して、自由に取材した。
 大宅壮一、西条八十、林芙美子、石川達三らの、多くの評論家、作家、詩人も南京に入城して、自由な取材活動を行なった。このような人達が、当時も今日も、「大虐殺」に関しては何も発言していない。

 ★なわ・ふみひとのコメント★
 
著者は陸軍飛行学校を卒業後、シナ事変、大東亜戦争航空作戦に参加。終戦前日に特攻の命令を受ける、という経歴の持ち主です。アメリカ(を支配する層)が東京裁判の中ででっち上げ、それをその後中国が日本からカネを引き出す道具として有効に活用している「南京大虐殺」が全くのウソであることを、自らの体験から証明しています。
 その著者も今年すでに95歳の高齢です。著者が述べているように「真実は戦争の勝敗とは関係ない」のですが、戦争に負けた日本の国民は、アメリカ(を裏から支配する権力集団)の計画的な謀略によってウソの歴史を教え込まれてしまっているのです。今後、このように“真実”を語れる人がますます少なくなっていくなかで、ウソがそのまま歴史の1ページに定着していくことになります。それとともに日本人は自分の国に対する誇りを失い、ますます自虐的になっていくことでしょう。
 私たちにできることは、“真実”を知る努力をし、それをできるだけ多くの人にに語り継いでいくことです。
 
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