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 私の霊界紀行
 F・C・スカルソープ・著 近藤千雄・訳
潮文社
 
 記憶がこしらえる世界

 下層界は地上とそっくりである。都会あり、町あり、村ありで、いずれも地上の現在のその地域の写しであるように思える。幽体がその界層と同じ波長を整えれば、そこの存在物はすべて地上と同じく固く感じられる。
 そうした地域性はその地域で他界した住民の精神の働きによって形成される――だから見覚えのある環境となっているのだということを、何かの本で読んだことがあるが、それは事実のようである。同時に、
精神というものは細かい点まで再現する写真的ともいうべき記憶性を有していることも事実である。
 一例をあげれば、ある町の通りに街灯を見かけたことがあるが、これなどは夜のない世界では不要のはずである。が、地上で見ていたその記憶が自動的に再現するのである。
 この無意識の創造力について霊界の教師と話をしていた時に「その衣服はどこで仕入れられましたか」と聞かれたので、私はまじめに受けとめて地上の洋服店の名前を思い出そうとしたが思い出せなかった。実はその先生はそんなことを聞いたのではなかった。
 そのあとで私の衣服を指さして「よく見てごらんなさい」と言われて改めて見ると、いつもの普段着を着ており、驚いたことに、チューブを強く押さえすぎて飛び散った歯みがきが全部取り切れずにシミになって残っているところまで再生されていた。
 下層界の住民は大なり小なり霊的真理について無知である。自分が死んだことに気づかない者すらいるほどである。生活環境が変わったことにうすうす気づいてはいても、夢幻の境にいるようで、はっきりとした自覚はない。こうした種類の人間は地上時代そのままの常識をたずさえてきており、彼らにとって霊はあい変わらず曖昧な存在である。環境が地上と少しも変わらないからである。
 これだけ体験と知識とを得た私ですら、霊界のどこかに到着したときは自覚がはっきりせず、まだ地上にいるような錯覚を抱いていることがある。そのうち前もっての知識が表面に出てきて、やっとそこが霊界であることを認識する。
 見かけたところ大ていの住民が満足している様子である。体調はいいし疲れを感じることもないからである。が、知識欲も好奇心も持たない。
 どうやら向上心というものは内部から湧き出るしかないというのが法則であるらしい。いつかはその時期がくるであろうが、
地上時代に染み込んだ観念がそのまま霊界生活となっている人が多く、習慣がそのまま持続されているのである。そのため下層界では地上と同じ仕事が見られる――道路工事、工場での仕事、橋の建設、等々。炭鉱夫が例の運搬車に乗って機嫌よさそうに鼻歌をうたっているのを見かけたことがある。
 ある工場では溶接工が仕事をしているのを見物したことがある。火花といってもごく小さなもので、マスクもいらないほどであるが、本人は大まじめで溶接しているつもりだった。見つめている私を見上げて「あんたもここで働いてるのか?」と聞くので「いや、いや、ちょっと見物してまわっているだけだ」と答えたことだった。
 
霊の世界では思念が具体化するようである。それで“物”が存在するように思える。進化するとその一種の創造力が別の形で活用されることになる。有名な心霊学者のF・W・H・マイヤースが死後送ってきた通信『永遠の大道』(浅野和三郎訳・潮文社)の中で、この下層界のことを“夢幻界”と呼んでいるが、至言である。
 
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