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 人にはどれだけの物が必要か
 鈴木孝夫・著 飛鳥新社
 
 
 地球原理の導入を

 神という超越的な絶対存在を引き合いに出すことなく、客観的な立場から宇宙を観察し、世界を人間中心的な色彩の濃い生物学的な見方で解釈し、人間をその中に位置づける近代の科学的合理主義が、益々その勢いを増している。
 キリスト教が唯一の権威であった時代では、あることが正しいかどうかという価値判断の究極的な基準は、そのことが神の御旨に適うかどうかという宗教的神学的な原理に帰着した。ところが今では、あることが科学的理論的に納得できるか否かが、人々の考えや行為の正否善悪を決めるよりどころとなったのである。
 西欧で支配的になりつつあったこのような新しい世界観の強い影響の下で、社会の近代化(西欧化)に乗り出した日本が、法律は勿論のこと社会一般の道徳や規範意識までも、日本固有の宗数的色彩を急速に失い、次々と世俗化していったのは避け難い時代の流れであった。
 その結果として、以前ならば天罰や神仏の祟りとして忌避され、勿体ない、神様に申し訳ないなどと非難の的になったような多くの行為が、科学的に正しい、理屈に合う、経済的に有利だといった理由で、広く社会的に認められるようになってきた。
 日本人の自然に対する考え方、人間以外の生物や草木に接する態度まで大きく変わってきた。その結果として見逃せないものの1つが、食物に対する考え方の変化である。
 私たちが普段食べている物は、食塩などの僅かの無機物を除けば、その殆どが命ある生物で占められている。肉や魚、ニワトリや卵は勿論のこと、穀物や野菜にもそれなりの生命がある。だから昔の人は物を食べるという、私たち人間の一日たりとも休むことのできない行為が、他の生物の尊い命を奪うことの上に成立っているのだという意識をはっきりと持っていた。生物をむやみと必要以上に殺したり、穀物を一粒たりとも粗末にするようなことは、いつの時代でも宗教的なタブーとされていたのである。
 ところがいまは違う。食物は食品であって、店でお金と引替えに買ってくる単なる物品と見なされるようになってしまった。現代人の多くは、穀物や野菜の生産現場から全く切り離され、家畜が屠殺される悲しい光景など見ることもないからである。かくして食物はもろもろの生物の命の代償であるという感覚が失われてしまった。
 現在、野菜や穀物のような植物はまだしも、豚やニワトリのような動物までが生産効率を上げるために、命ある生物としてではなく、単なる蛋白質や脂肪、澱粉やミネラルといった栄養物資の製造機械と見なされ、たとえば極端な「密飼い」の下で、恐しいほどのストレスと不健康な状態で生まれては死んで行く。そのことを知っている私は、ここでも人類は間違った方向につき進んでいると思わざるを得ない。
 私はこのようなことを見るにつけ、私たちはいまこそ現代人の心から失われてしまった、何事とは見極めのつかない、人智の及ばぬ途方もない大きな何かしらに対する畏敬の念を、改めて取り戻すことが絶対に必要だと考える。
 自分たちは、全世界の約三千万種と推定されている多種多様な生物の一員でしかないという自己の分際を忘れて傲岸不遜に振舞い、毎日のように多くの貴重な生物を死に追いやり、森林や農地を荒廃させ、地球の全生態系を擾乱し続けることは、どう考えても許されることではない。それは金銭上の損得とは違う次元の、人間の生き方の問題なのだ。
 
 
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