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 願望実現の技術
大島清・著  ゴマブックス
 
 
 ホンモノの自然、生身の人間とつきあってこそ“いい願望”は育つ

 都内の小・中・高校の47校で、8,400人を対象にアンケートをとったところ、高校生では男子の71%、女子の21%がアダルトビデオを見たことがあるという。アダルトビデオを見る人は、そのビデオを鑑賞しようとは思わない。ビデオの中の世界に自分を置き、疑似体験することによって満足を得ようとするわけだ。アダルトビデオにかぎらず、周囲を見渡せば、ウォークマン、テレビゲーム、パソコンといった疑似体験機器がいくらでも発見できるのである。
 二次元の世界には人間の暖かみもなければ匂いもない。厚みもなければ重さもない。すべてが平板なコピーである。そして、ひたすら閉鎖的だ。「たかが機械」と思う人もいるかもしれないが、そのような世界に長くいるうちに、二次元の虚像を実像と勘違いしてしまうことがあるのだ。
 たとえば、匂いのない世界に慣れているから、いまの若者は異常に匂いを嫌う。本来は、男性の性欲を喚起させる女性特有の匂いがイヤだといって、生身の女性に近づけない男性が増えているのも厳然たる事実である。この時点で、すでに虚像と現実を取り違えているわけで、それが高じると生命の尊厳すら認識できなくなるのだ。ゲームのように人を殺す若者が増えているのもそのためだし、平気で自殺してしまう裏には「ビデオは何度でも再生できる」といった感覚が強く存在しているのではないかと思うのだ。
 近ごろ「何がしたいかわからない」という若者が増えているのも、疑似体験の弊害だろう。いまの若者がみんな同じように見えるのも、テレビや雑誌という二次元情報に浸って、画一的なイメージしかもてないことの証である。つまり、イメージ脳が作動していないのである。
 しかし、けっして絶望的というわけではない。意識してホンモノの自然や生身の人間とふれあうことがたいせつなのだ。そうすることによって脳は刺激され、前頭葉ソフトウェアは活性化する。そうすれば、しぜんとよいイメージも浮かび、願望実現もしやすくなるはずである。

 
小説や映画などに感動したら、自分の体でもう一度感動を体験してみる

 何も私はテレビを見るな、ビデオを見るな、ファミコンをするなと言っているわけではない。テレビ・ビデオ・ファミコンも気分転換にはいいだろう。ただ、危険なのはテレビ・ビデオ・ファミコンの世界にどっぷりと漬かり、自分のまわりの世界が擬似体験に囲まれてしまうことだ。そうなると、脳の働きが鈍くなってくる。純くなるだけならまだいいが、願望自体がねじまがり、危ない願望が頭をもたげてくることすらある。
 テレビ・ビデオ・フアミコンなどの擬似体験をホンモノ体験につなげていくことはできる。映画を観たり、音楽を聴いたり、本を読んだりして、「おもしろいな」と思ったものはそのままにしないで、自分の目で見、耳で聞き、肌で触れ、舌で味わう機会をつくってみるのである。
 たとえば、太宰治の小説には荻窪や三鷹の小料理屋やカフェがよく出てくる。そんなときは、ただ漫然と読書をつづけるのではなく荻窪や三鷹近辺を散歩し、現在の町並みから太宰が通った小料理屋やカフェはこの辺りにあったかもしれない、などと想像するのもおもしろい。
 また、テレビドラマで使われたブティックに行ってみたり、小説の中に出てきた料理を食べてみるなどホンモノ体験をする材料は日常生活の中にいくらでも転がっている。スポーツ観戦もテレビですますのではなく、たまには野球場に行ったり、国技館に足を運んでみることをおすすめしたい。
 擬似体験に囲まれて育った最近の若い人たちは、小説を読んでも、音楽を聴いても、映画を観ても「ああいいな」で終わってしまう。それでは脳を鍛えることはできない。舞台となった地を訪れてみたり、使われた物を探してみることで、情報は多方向から脳に流れ込んでくる。それが、前頭葉ソフトウェアの活性化につながり、願望実現のためのイメージづくりにも役立つのである。
 
 
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