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 禅の極意
いますぐ幸福になる方法
宮前心山・著 展転社
 
 むさぼりは餓鬼、施しは仏

 幸福を構成する要素を考えてみましょう。
 人間には、財欲、色欲、名誉欲、飲食欲、睡眠欲の5つで代表される本能的な欲望があります。
 財産欲を例にとると、欲望への対しかたに4つのタイプがあります。

A ある程度財産をもっていて満足している人。

B ある程度の財産があるのに、もっと欲しいと思っている人。

C 財産がほとんどなくて、欲しいと思っている人。

D 財産はたいしてないが、別に欲しいと思っていない人。

 Aは普通の人、Bは金持ち、Cは貧乏人、Dは無欲な人、といえましょうか。ある程度もっているのにもっとほしいという人と、たいしてなくとも別に望まぬ人とでは、どちらが富者なのでしょうか。
 この場合に、ある程度財産があるとか、ほとんどないとかいっても、それは主観的な量であって、個人の心のもち方が満足感を左右することがおわかりでしょう。財産欲がなくては進歩もあり得ず、向上もないのですから、度を越さないほどの欲はもっていてもよいのです。ただし「むさぼらない」という心構えが大切になってきます。
 なぜ施しをせねばならないか。施しの精神がわかるには、自分が多くの人達の世話になって生きていることをまず知らねばなりません。いま着ている洋服は、どこの誰がつくってくれたものでしょう。毎日食べている生命の糧はどこのどなたが作ってくれたものでしょう。私達はその人達にお礼のひとつもいったことがあるでしょうか。いや、お礼をいうものだとも思っていないのではないでしょうか。人間がこの世の中で生活できるのは、しらずしらずのうちに多勢の人達のお世話になっているからです。そのお世話に報いるのが施しです。
 身近な親子、夫婦の間からはじめ、分に応じて親類、近隣というように輪をひろげるようにしていったらよいと思います。
 かならずしも財物でするもののみが施しではありません。和顔の施し、親切な心の施し、優しい言葉の施し、タメになる話の施しなど、一円もお金のかからぬ施しがあります。老人に席をゆずってあげるのも、玄関で人の履物を揃えるのも、道端のゴミ一つを拾うのも、施しであります。
 執着、とらわれ、我執は全部自己愛からきています。人間は自分ほどかわいいものはありません。しかし、自分がそうなら他人も同じであるはず。そこで他人を害してはならぬことを知るべきでしょう。そして、自分がされて腹の立つことは人にもしない。自分のされて嬉しいことは人にも施すことが大切です。
 そうすると、人のためと思ってすることが、まわりまわって自分のところへ返ってくるのです。
 人に物をあげることを極端に嫌う人がいます。人に物をあげるのは損だと考えているのでしょう。不思議なもので、人にどんどん物をあげるとどんどんかえってきます。
 ただし、施しの原則は報いを求めてはならぬということです。施す方も、受ける側も淡々たる心でなければなりません。「あのときオレがあれだけしてやったのだから、このぐらいはしてくれてもよさそうなもんだ」という気持ちがあっては、相手に施したことにはならない。
 お釈迦さまの教えは「こうしてやった。こうして貰った」ということにとらわれて心を残すなかれというもので、感謝の念すら捨てろというものではありません。お釈迦さまは「財施をいただいたら、もらい放しではいけない。法施をせよ」と申されております。
 人のため法の施しをすれば、かならず回り回っておかえしがある。自分の生活のためだけを考えていては、決して回ってこない。自分の家庭だけを考えていては、それだけの収入しかない。精神的な救済など自分の家族にすら及ばない。しかし、全社会を自分の家庭と考えていれば、多くの人を救い、自分も豊かで充実した生活を送れるということです。
 
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