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 ステイントン・モーゼスの
続・
霊訓
ステイントン・モーゼス 桑原啓善=訳
土屋書店
 
 霊の世界とは、諸君らの理解するような「場所」ではなくて「状態」である。霊は時間と空間には支配されていない。境域の違いとは、そこに住む霊の精神的・知的・霊的な状態の相違なのである。似たもの同士が集まり、気心の合った仲間との交わりで喜びを得るのである。その社会とは、趣味や嗜好の共通性ということなのである。
 高級霊の界層には、徳性の低い霊は入っていけない。教導を必要とする霊達は低い界層に集まっている。これらの霊達は高級霊の指導を受ける。高級霊達は自分の光り輝く場所を離れて、地上に執着を持ち続ける迷った霊達に光明をもたらすために出かけていく。
 最初の3つの界層が地上に近接してある。そこには上記のような霊達が溢れている。
 その第1は、いろいろな原因で地上に縛りつけられている霊達である。地上生活ではほとんど進歩しなかった連中がそれである。彼らはまったくの邪悪霊ではないが、フラフラした無目的の魂であって、自分の機会をつまらぬことに使い、むざむざ浪費した連中である。
 次に、進歩はしているかもしれぬが、友への情愛や心残りからその絆が断ち切れず、地上の近くにいたいと思っている霊達がいる。
 もう一つ、訓練不十分の霊達、つまり学ぶところがまだ少なく、基本的な教導の段階にある霊達である。こういう霊は不完全な肉体に宿ったので、地上で学ぶべきものをまだ残している者である。また、不慮の死で、自分のせいではないが、なお進歩のためには学ぶものが残っている霊達もそうである。

 通信霊の名前は、貴下に霊からの通信が伝えられる場合の便宜上の符丁にすぎない。
通信は、場合によってはいろいろな霊のものが混じっている。多くの場合、貴下に届く通信は一個の霊の作品ではなく、多くの霊の集約的作品である。貴下への通信に関与した多数の霊達は、もっと高級な霊力を貴下に伝えるための手足にすぎないのである。

 貴下は自分の霊力を養い、肉欲を抑制し、自分の環境を克服することを学ばねばならぬ。地上生活は内的にいっそう真実な生活の準備にすぎない。我らが世界こそ真実。
地上は影の世界である

 霊主肉従とならねば、真理を手にすることはできない。霊的真理を目指す者は、万事において純粋であること。心身ともに勇気に満ちていて、ただ一途に真理に向かい、かつ自制心がなければならない。
 肉感の方が霊性に勝る不潔な者、知識を悪用する利己主義者、これらの者達が霊的知識を追求すれば、深甚、深刻な危機を伴う。
 とかく気まぐれ者が神秘に心をひかれる。こういう連中は、ただ好奇心からベールの彼方をのぞきたいと思ってるだけだ。彼らは虚栄心が強く、人が持っていない力や知識を好んで持ちたがる。そんなところからのぞき見心を出す。こういう人には危険が伴う。真理探究の人には、かような危険は一切ない。

 霊能力の開発には、危険を伴う。霊媒の周りに強力な取り巻きの霊がなければ、未発達霊が侵入する危険性が増す。注意と祈りが必要条件となる。

 人類はある程度まで、霊界からの教導の受容者なのである。
我らは因果律に干渉することは許されていない。つまり、犯した罪の結果を免れさせること、無益な好奇心のとりもちをすること、この世を試練の場から変更させること。

 
霊能力が開かれると、地上と交信したがっている大群の霊達のとりこになりがちなのである。敏感であればその分だけ、地上近くの未発達霊の危険性が高い。この危険は恐ろしく、我らが絶対に望まぬところである。
 
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